上陸戦
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7月26日、連合軍攻略部隊はサルミを出撃してサンサポールに向かう。道中で5機の日本機の爆撃を受けるも上空掩護のP-38がこれを一掃し、7月30日の未明までにはミッテルバーグ、アムステルダム両島沖に到達する。7月30日明け方8時、攻略部隊は艦砲射撃に続いて両島への上陸を開始し掃討を行ったが、日本軍がいなかったためこのまま占領した。連合軍のミッテルバーグ、アムステルダム上陸は第七飛行師団機の30日午後の偵察で日本側にも知られるところとなったが、特に反撃は行わなかった。翌7月31日にはサンサポール地区への上陸を開始し、こちらには日本軍部隊がいたものの微弱で、日本軍部隊はわずかな交戦ののち後退していった。こうして、連合軍部隊はたやすくサンサポール地区の航空要地を確保することに成功した。阿南は地上部隊による抵抗を半ばあきらめて航空攻撃を要請する一方で、第二軍は第三十五師団(池田浚吉中将)に上陸部隊との戦闘を一任させることとしたが、ソロンへ転進中の第三十五師団の一部は上陸部隊と交戦したものの敵わず、戦闘と行軍で多大な犠牲を出した。阿南が望んだ航空攻撃も、温存策をとられて不活発に終わった。サンサポール地区での陸上戦は散発的に行われたが、8月末にはおおむね終わった。 なお、サンサポールをめぐる一連の戦闘における日本軍および連合軍の陸上部隊の動員数は定かではなく、戦闘における戦死は日本軍は約380名を数え、連合軍側は8月末までに「戦死10名、負傷31名」とも、「戦死34名、負傷85名、戦死とは別にツツガムシ病で9名死亡」とも記録されている。
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上陸戦
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HUS-1を搭載した「セティス・ベイ」 ワスプ級強襲揚陸艦「ワスプ」 詳細は「ヘリコプター揚陸艦」および「強襲揚陸艦」を参照 ヘリコプターの発達に伴って、アメリカ海兵隊では、これを水陸両用作戦で活用するための研究に着手した。これはヘリボーンの戦術的な利点と同時に、部隊の集結・散開を迅速に行えるために戦術核兵器の標的になりにくいこと、また放射性物質を含んだ津波の影響も避けやすいことにも着目したものであった。1947年12月にはシコルスキーR-5を装備する実験飛行隊として第1海兵ヘリコプター飛行隊(HMX-1)が編成され、同機の貧弱な輸送力にも関わらず、1948年5月の上陸演習「オペレーション・パッカードII」では護衛空母「パラオ」を母艦としたヘリボーンを実施して、その有用性を立証した。しかしながら、戦後の軍事予算削減に加えて、水陸両用作戦という作戦形態の将来性が疑問視されたことから、海兵隊のヘリコプターに関する研究はなかなか進捗しなかった。 その後、1950年9月の仁川上陸作戦で水陸両用作戦の価値が実証され、また朝鮮戦争を通じてヘリコプターの有用性が確認されたことから、1951年7月、海兵隊総司令官はヘリコプターによる空中強襲という構想を再検討することにした。これに伴い、その母艦となるヘリ空母も検討されるようになったが、この時点では、攻撃輸送艦(APA)および攻撃貨物輸送艦(AKA)に航空母艦としての機能を組み合わせたものとして、APA-MまたはAKA-Mと仮称されていた。1954年8月には、大西洋艦隊の水陸両用部隊(PHIBLANT)は、LSTにかえてAKA-Mを建造するように提言した。これらの議論を受け、空中強襲というコンセプトの妥当性について検討するため、1955年には、モスボールされていた護衛空母「セティス・ベイ」が強襲ヘリコプター空母 (CVHA) に改装された。これにより、同艦は、世界で初めてヘリコプター運用に適合させて改装された航空母艦となった。 その後、一回り大きな「ブロック・アイランド」を同様に改装することが計画された際に、これらの艦が航空母艦の保有枠を圧迫しないように揚陸艦のカテゴリに移すことになり、ヘリコプター揚陸艦(LPH)という新艦種が創設された。予算上の理由から同艦の改装はキャンセルされたものの、LPHとしてはイオー・ジマ級が新造されることになり、これは世界初の新造ヘリコプター空母となった。また同級の竣工までの漸進策として、エセックス級航空母艦3隻もボクサー級として改装された。 また1956年には、イギリス海軍も、兵員輸送艦に転用していたコロッサス級航空母艦2隻(「オーシャン」、「シーシュース」)艦上にヘリコプターを展開して、ヘリ空母としての運用を試みた。これらは同年の第二次中東戦争で実戦投入され、史上初めてヘリボーンによる水陸両用作戦を実施した。そして1959年から1962年にかけて、より大型のセントー級航空母艦2隻(「アルビオン」、「ブルワーク」)がコマンドー母艦(commando carrier)として改装されたが、これは実質的にヘリコプター揚陸艦と同様のものであった。ただしイギリス海軍は、その有用性を評価しつつも予算不足のために専用艦としては維持できず、また北大西洋条約機構(NATO)から対潜戦プラットフォームの拡充を要請されたこともあって、1973年に退役した「アルビオン」のかわりにコマンドー母艦として改装された「ハーミーズ」は、1976年には対潜空母として再改装されて、対潜戦と上陸戦の両方に用いられるようになった。これに続く対潜空母として1980年から就役したインヴィンシブル級でも兼務体制は継続され、コマンドー母艦としても行動できるよう、600名以上の海兵隊員の乗艦に対応した。フォークランド紛争後には、その教訓を踏まえて専用のヘリコプター揚陸艦の計画がスタートし、「オーシャン」が建造されたが、これも2018年には退役した。これに対しイタリア海軍では、軽空母として運用してきた「ジュゼッペ・ガリバルディ」について、後継となる「カヴール」の就役とともに固定翼機の運用を終了し、ヘリコプター揚陸艦として運用するようになっている。一方、アメリカ海軍は、これらのヘリコプター揚陸艦の有用性を評価した結果、1971年から、更に大型で上陸用舟艇の運用にも対応するなど多機能な強襲揚陸艦としてタラワ級の建造に着手し、1989年からは発展型のワスプ級が就役を開始した。また2000年代に入ると、ミストラル級のように、アメリカ国外でも同種の艦艇が出現している。
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