ヨーロッパロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 20:38 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2021年10月)
|
ヨーロッパロシア(英語: European Russia、ロシア語: Европейская часть России、略称: 欧露)は、ロシアの領土のうち、ヨーロッパに分類される西側部分を指す名称である。
概要
ヨーロッパロシアは総面積約396万平方キロメートル (km2) で、2015年現在の欧州連合加盟国の総面積よりやや小さいが、インドの全面積より大きく、ヨーロッパ全体の約40 %を占める。東の境界はウラル山脈により規定され、南側はカザフスタンとの国境により規定される。連邦管区としては、中央連邦管区、南部連邦管区、北西連邦管区、沿ヴォルガ連邦管区が該当する。これらのヨーロッパ・ロシア地域にはモスクワやサンクトペテルブルクといったロシアの大都市が含まれる。
ロシア連邦の全人口の約77 %(全人口約1億4000万人のうち約1億1000万人)がヨーロッパロシアに居住しており、人口密度は約27人/km2である[1]。ロシアの全面積の約75 %の領土はアジア側に属するものの、アジアロシア地域には人口の約22 %しか住んでおらず、人口密度も2.5人/km2と約10倍の開きがある[1]。
19世紀では「ヨーロッパ・ロシア」という用語はロシア帝国において、伝統的にロシアの影響下にあった現代のベラルーシとウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナ)を含む地域を指す際に使用された言葉でもあった。
2022年ロシアのウクライナ侵攻の翌日にロシア軍基地が何者かに攻撃され、9人の死亡が確認された。ロシア連邦保安庁はウクライナ軍による攻撃だとしているが、ウクライナ軍側はロシア軍の自作自演と批判した。その後もロシア西部などで謎の火災が連続で発生した。
ギャラリー
-
ヨーロッパロシアとアジアロシアを分割して示した図
-
第一次世界大戦勃発前のヨーロッパロシア帝国の民族分布
脚注
- ^ a b Vishnevsky, Anatoly (2000年8月15日). “Replacement Migration: Is it a solution for Russia?” (PDF). EXPERT GROUP MEETING ON POLICY RESPONSES TO POPULATION AGEING AND POPULATION DECLINE /UN/POP/PRA/2000/14. United Nations Population Division, Department of Economic and Social Affairs. pp. 6,10. 2013年3月22日閲覧。
関連項目
外部リンク
ヨーロッパ、ロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:19 UTC 版)
東洋の財貨を求める航海は貨幣にも多大な影響をもたらした。クリストファー・コロンブスはマルコ・ポーロの『東方見聞録』の愛読者であり、東洋への航海としてツィパング、次にカタイに到着する計画を立てる。計画はイサベル1世の興味を惹き、コロンブスはスペイン王室と協約を結んで東洋の真珠、金、銀、貴石、香辛料を入手すべく出航し、アメリカ大陸に到着した。スペインやポルトガルのアメリカ大陸到着はスペインによるアメリカ大陸の植民地化やポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化にもつながり、重金主義の政策が普及した。スペインのカスティーリャ王国は、アメリカ大陸の植民地化によって金銀を獲得し、スペインのエスクード金貨やレアル銀貨が国際的な貨幣として流通した。アメリカ大陸からの金銀流入は、価格革命と呼ばれる現象の一因とも言われる。 イタリアの諸都市に利益をもたらしていた金融技術は北方にも伝わった。17世紀には、大市が持っていた為替市場の機能が銀行と取引所に移り、金融の中心地は地中海から北西ヨーロッパに移った。各国から商人が集まっていたアントウェルペンやニュルンベルクが国際金融取引の中心となり、のちにアムステルダムに移る。アムステルダムは17世紀に2種類の銀貨を発行し、銀の含有率が少ない国内用銀貨と、銀の含有率が高い貿易用の銀貨に分けられた。アムステルダム銀行はバンク・マネーであるグルデン・バンコ(gulden banco)で預金管理を行い、複雑化していた西ヨーロッパの計算体系をまとめた。アムステルダム銀行は利子の公認、為替手形の割引や裏書による譲渡、信用創造などによって、有力商人が占めていた分野に中層の商人も参加しやすくなった。 銀行券、中央銀行の成立 スペインがアメリカ大陸からもたらした金銀が一因となり、16世紀に価格革命と呼ばれる現象が進む。西ヨーロッパの価格は高騰し、人々は盗難や磨耗の危険を避けるために貴金属細工商である金匠に金銀を預け、預り証として証書を受け取った。この証書はゴールドスミス・ノート(金匠手形)とも呼ばれて銀行券の原型となる。金匠手形は金額や発行者名などが手書きのものが流通したが、やがて金匠銀行は王室への巨額の貸付を回収できず破綻した。 ヨーロッパで最初の紙幣は、スウェーデンで発行された。スウェーデンは戦費によって財政が疲弊して金銀が不足し、取り引きの中心は重量がかさんで運搬に不便な銅貨だった。その代わりとして民間銀行のストックホルム銀行(英語版)が銀行券を発行し、政府の承認を受けた。のちにストックホルム銀行は破綻し、初の中央銀行であるスウェーデン国立銀行の設立につながる。 ロシア ロシアは、西方はバルト海経由でヨーロッパとの貿易があり、東方ではトルコ、ペルシャ、清との貿易があった。15世紀以降はモスクワ大公国を中心として西方から銀を輸入し、東方の物産を輸入するために再輸出され、トルコとペルシャに対しては赤字が続いた。16世紀から東方への進出が始まり、その目的には金の発見も含まれていた。しかし金は発見されず、清との貿易が行われた。ロシアは18世紀の紙幣発行まで貴金属の不足が続き、ターラー銀貨をもとにしてエフィムキと呼ばれる銀貨も発行した。エカテリーナ2世の時代にはルーブル銀貨に兌換される紙幣を発行して、紙幣と銀貨の2本立てとしたが、紙幣の相場は下落した。政府はこの解決のために金本位制を検討し、農産物の輸出で利益を得ていた大農場経営の地主に反発を受けつつも、のちに金本位制を導入した。
※この「ヨーロッパ、ロシア」の解説は、「貨幣史」の解説の一部です。
「ヨーロッパ、ロシア」を含む「貨幣史」の記事については、「貨幣史」の概要を参照ください。
ヨーロッパロシア
「ヨーロッパロシア」の例文・使い方・用例・文例
「ヨーロッパ - ロシア」に関係したコラム
-
株価指数は、証券取引所に上場している銘柄を一定の基準で選出し、それらの銘柄の株価を一定の計算方法で算出したものです。例えば、日本の株価指数の日経平均株価(日経平均、日経225)は、東京証券取引所(東証...
- ヨーロッパ - ロシアのページへのリンク