ストックホルム銀行
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「スウェーデン国立銀行」の記事における「ストックホルム銀行」の解説
前身のストックホルム銀行は、1656年にヨハン・パルムストルックが創設した民営の融資銀行・為替銀行である。同行の設立は、当時のスウェーデン国王カール10世に承認された。私企業でありながら、政府機関として稼動した。パルムストルックを頭取としたが、補佐役の支配人3人枠は、市民・貴族・ストックホルム公使から1人ずつ選ばれた。設立3年後に監査も任命された。 ストックホルム銀行の経営ぶりは初期から近代的であった。融資部門では動産・不動産を担保とする貸付ができた。為替部門では国内に流通していた複数種の通貨を預金できたし、現物の鋳貨を引き出せたし、小切手を振り出して預金を預けたまま譲渡することもできた。預金債権の譲渡が原則禁止される今日の銀行システムとは対照的である。同行は順調に利益を出した。 そして試練が訪れた。国内では銀や銅が不足していた。そこで改鋳が行われた。純銅136kgは従来券面額75dalerで鋳造されていたが、他の金属を混ぜて券面額90dolerに増やすことが決まった。すると、改鋳前後で券面額が同じ銅貨を比べると古い方が銅が多く含まれており、素材価値で勝ることになる。そして、その古い方をストックホルム銀行は大量に預かっていた。融解輸出して利益を得ようと預金者が取り付けに殺到し、銅貨はとけてなくなった。銀貨も似たような目に遭ったかもしれない。 1661年にやむなく、ヨーロッパで最初の紙幣を発行した。誤解がないように断っておくと、これは今日の管理通貨制度下で量的金融緩和政策に伴い増殖するような紙幣に比べれば、それは尊いものであった。信用紙幣といって、要は銀行振り出しの手形であるから鋳貨に兌換できるのである。券面額がきりのよい数字で無利子、加えて弁済期が持参人払いという利便性は、同行に規格化されて紙幣らしいものとなった。これは同じ券面額の銅貨に対し、時としてより高い相場で取引された。同行は紙幣を貸付に用いた。融資の活発化に伴い流通量が増えた。しかし金庫の鋳貨は増えない。準備率が下がり兌換が難しくなった。 1663年秋、デフォルトが公になった。紙幣はどんどん割り引かれた。政府は事態を調査した上で、紙幣を貸しはがして燃やせと命じた。新規の融資もストップした。1667年、パルムストルヒは経営責任を問われ死刑判決を受けたが、執行を免除された。この寛大な措置には理由があるだろう。そもそも事の発端は政府による改鋳であったし、不足していた金属の確保も政治の責任であった。
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