ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ」の解説
1927年6月、ヒッチコックは前月に撮影を終えた『ふしだらの女』を最後にゲインズボロ・ピクチャーズを辞め、新しく設立されたブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ(英語版)(BIP)と契約し、その拠点のエルストリー・スタジオ(英語版)に移った。BIPではゲインズボロと比べてより良い条件と高い独立性が保証された。年俸はゲインズボロ時代の約3倍となる1万3000ポンドとなり、当時のイギリス映画界で最も高給取りの監督となった。スタジオから創造的な自由を与えられたヒッチコックは、同社第1作を自身初のオリジナル脚本で作ることにした。その作品『リング』は同じ女性に恋をした2人のボクサーを描く三角関係ものの恋愛ドラマで、同年夏に撮影し、10月に公開されると肯定的な批評を集めた。 1927年秋にはイーデン・フィルポッツの戯曲の映画化で、妻を亡くした農場主の花嫁探しを描くコメディ映画『農夫の妻』(1928年3月公開)を監督した。撮影はイギリス南部のデヴォンやサリーの田舎で行われたが、その地の風景やロンドンの喧騒から離れた静けさに魅力を感じたヒッチコックは、1928年にサリーのギルフォードから4マイルに位置する村シャムリー・グリーン(英語版)の近くにあるチューダー様式の別荘「ウィンターズ・グレース」を2500ポンドで購入し、そこで家族と週末を過ごすようになった。この頃にヒッチコックはアメリカ風のコメディ映画『シャンパーニュ(英語版)』を撮影していたが、同年夏に公開されると批評家に「一晩中、雨にさらされたシャンペン」と言われるなどして酷評され、後年にヒッチコック自身も「わたしの作品のなかで最低のもの」と述べている。 1928年7月7日、ヒッチコック夫妻の一人娘であるパトリシア・アルマ・ヒッチコック(英語版)が生まれた。それから数週間後にはホール・ケイン(英語版)の小説を映画化したメロドラマ『マンクスマン(英語版)』(1929年1月公開)を撮影したが、これはヒッチコックの最後のサイレント映画となり、翌1929年初めに撮影した『恐喝』からトーキーの時代が始まった。この作品はチャールズ・ベネット(英語版)の戯曲の映画化で、自分を犯そうとした男性をナイフで殺害し、それが原因で見知らぬ男に恐喝される女性(アニー・オンドラ(英語版))と、彼女を守る婚約者の刑事が主人公のサスペンスである。最初はサイレント版で撮影していたが、その途中で会社からトーキー化の話が生じたため、ヒッチコックはいくつかの部分を撮り直してトーキーにした。ヒッチコックは音という新しい表現手段の可能性を追求し、例えば、主人公の女性が殺人を犯した翌日の朝食のシーンでは、日常会話に「ナイフ」という言葉を繰り返し強調して、女性の罪悪感や恐怖心を際立たせた。1929年7月に作品が公開されると、批評家から熱狂的な評価を受け、商業的にも『リング』以来の成功を収めた。 1930年初め、ヒッチコックはイギリス初のミュージカル・コメディ映画『エルストリー・コーリング(英語版)』の数シーンだけを監督し、その次にショーン・オケーシーの有名な戯曲が原作の『ジュノーと孔雀(英語版)』を撮影した。ヒッチコックはこれを会話が多い非映画的な作品と見なし、それ故に気乗りのしないまま仕事に取り組んだが、同年に公開されると批評家に好意的な評価を受けた。この頃、多くのメディアからインタビューを受けたヒッチコックは、自分の名前を広く宣伝する重要性を理解し、ヒッチコックの広報活動を担う小さな会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立した。5月にはヒッチコック作品では珍しい犯人さがしを描く謎解き映画『殺人!』(1930年公開)を監督したが、この作品はまだアフレコ技術が確立していない中でヨーロッパに売り込むため、同時に英語版とドイツ語版で撮影された。1930年末から1931年初頭にはジョン・ゴールズワージーの戯曲が原作で、成金と貴族の地主の土地をめぐる対立を描く『スキン・ゲーム(英語版)』を撮影し、2月に公開されると好評を博した。 1931年、ヒッチコック一家はカリブ海やアフリカなどを回る世界一周旅行をした。ヒッチコックの次の作品『リッチ・アンド・ストレンジ(英語版)』は、その時の経験やアルマとの新婚旅行に触発された作品であり、スポトーは「公然たる自伝ともいえる作品」と述べている。それは大金を得て世界一周旅行に出かけた夫婦を描くコメディドラマで、それまでに作ったトーキー作品への反動としてセリフのあるシーンを全体の5分の1しか設けなかった。同年8月に撮影を終え、12月に公開されたが興行的に失敗し、この作品を気に入っていたヒッチコックは失望した。この頃のヒッチコックとBIPの関係は悪化したが、BIPの経営状態も悪化し、ヒッチコックの次の作品でスリラーの舞台劇をコメディ風に映画化した『第十七番(英語版)』(1932年7月公開)は低予算で作られた。この作品も失敗作となり、ヒッチコックは「批評家たちの注意すらひかなかった」と述べている。その次もまた低予算で『キャンバー卿の夫人たち(英語版)』(1932年)の監督を命じられたが、作品に興味を示さなかったヒッチコックはプロデューサーだけを担当し、監督はベン・W・レヴィ(英語版)に任せた。そしてこの仕事を最後にBIPとの契約を終えた。
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