ドイツ移住
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「ローザ・ルクセンブルク」の記事における「ドイツ移住」の解説
1898年、ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、ベルリンへ転居。ドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党。以下SPD)に入党し、同党左派での活動を開始。それ以前から修正主義を唱えていた主流派のエドゥアルト・ベルンシュタインが1899年に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「社会改良か革命か」と題したパンフレットで激しく反論するし。この一件により、SPD随一の雄弁家・理論家として党内外の国際社会主義運動において広く知られるようになる。 このころには戦争の気配がいよいよ濃厚となり、ローザはSPDの順応主義的な議会路線への批判を強めた。ローザは、資本と労働のあいだの決定的な差異を埋めるには、プロレタリアートが権力を獲得し生産方法に関わるすべてに革命的な変革が起こらない限り不可能であると主張して修正主義者たちの離党さえ望み(さすがにこれは叶わなかったが)、議会制民主主義を重視する多数派や党指導部のカウツキーらとの対立に至る。ただし、カウツキーも(議会での議席数増大がその狙いである以上)党綱領からマルクス主義を捨て去ることまではしなかった。 1900年以降、ローザは『ライプツィヒ人民新聞』やSDKPiLの機関紙『赤旗』をはじめとするヨーロッパ中のさまざまな新聞記事で目下の経済・社会問題に関する意見を表明し、1904年から1906年のあいだには政治活動の咎によって3度も投獄されるが、なおも彼女の活動は精力的に続く。特に1905年のロシア第一革命に対しては、その歴史的意義と支持の意を強く表明、ゼネストの重要性を確信し、党の戦術として採択するよう主張するようになる。 1907年ロンドンで開催されたロシア社会民主労働党の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、レーニンと対面する。そのすぐ後に開催された第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会で採択された戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めるもの)は、ローザとレーニンによって起草されたものである。1906年にベルリンで開設されたSPD党教育センターで、マルクス主義経済学の講師を勤めるようになったのも1907年のことであり、ローザの主著の一つである『経済学入門』は、ここでの講義をまとめたものである。また、このときの受講者の一人には、のちのSPD議長にして、ヴァイマル共和国初代大統領、ドイツ革命の際には臨時政府元首としてローザを弾圧することになる、フリードリヒ・エーベルトがいる。 これ以前から戦争の危機が近づいているとの確信を深めていたローザは、ドイツの軍国主義と帝国主義に対する攻撃の手を強めていった。1910年には、党の採るべき革命的戦術として労働者に団結を促し、ゼネストを組織するよう、SPDの方向転換を要請する論文を執筆。しかしこれが党指導部に受け入れられず、機関紙『新時代』への掲載を拒否されたため、カウツキーらとの決裂は避けられないものとなった。 1912年2月には、SPD代表として、パリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者ジャン・ジョレスとともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。1914年にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達し、戦争を避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザはフランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴えかける。この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ、懲役1年の有罪判決を受ける。拘禁は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党において、ナショナリズムが階級意識よりも濃厚になっていることを認めざるを得ず、落胆する。 1913年には、古典派経済学の分析を通じて、資本蓄積が国際負債や帝国主義を生むとを論じた主著、『資本蓄積論(英語版)』を出版する。 1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告して第一次世界大戦が勃発。8月3日にはドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告した。翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。SPDの議員も全員がこれを支持し「城内平和」の名の下、戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され、求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調。こうして第二インターナショナルの命脈は尽きた。これを聞いたローザは衝撃を受けた。
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