ドイツ空軍での履歴
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「エミール・ラング」の記事における「ドイツ空軍での履歴」の解説
1939年8月26日からガブリンゲンの飛行場施設中隊(Fliegerhorst Kompanie)で輸送機のパイロットとして勤務していたラングは、1942年に戦闘機パイロットの訓練を受けたときには33歳になっていた。ラングは、第1初等戦闘機学校(Jagdflieger Vorschule 1)(1942年7月3日 – 1942年8月14日)と第5戦闘機学校(Jagdfliegerschule 5)(1942年8月15日 – 1943年1月5日)で戦闘機パイロットの訓練課程を受けた。1943年1月6日に東部戦闘団に配属され、その後の2月11日に東部戦線の第54戦闘航空団(JG 54)へ転属となった。JG 54/第1飛行中隊に少尉で配属されたときに34歳であったラングは、新人の戦闘機パイロットとしては異例の年齢と考えられた。ラングの最初の3機の戦果は1943年3月に記録され、1ヶ月の内にJG 54/第5飛行中隊に転属となり、8月20日にはそこの飛行中隊長となった。 1943年が終わるまでにラングは、10月と11月の僅か3週間でキエフ近郊で挙げた怒涛の72機を含む合計100機以上の撃墜を記録していた。この一連の複数戦果には、10月13日の10機と10月21日の3回の出撃で12機(61から72機目)という撃墜記録が含まれている。この戦功によりラングは、1935年から1945年までのドイツ国防軍の国防軍最高司令部が発表する戦況報告である「国防軍報」での自身に関する2回のうちの最初となる言及を受けた。1943年11月3日には1日の4回の出撃で前人未到の18機という撃墜世界記録を樹立し、航空史上で単日エースの首位に立った。この記録によりラングは1944年1月13日付の『ベルリン・イラストリールテ・ツァイトゥング』誌(Berliner Illustrierte Zeitung)の表紙を飾ることになり、ドイツ十字章金章受勲の3日後の11月23日に119機撃墜の功により騎士鉄十字勲章を授与された。 1944年4月9日にラング中尉は、西部戦線での本土防衛に携わるJG 54/第9飛行中隊の飛行中隊長に任命され、4月11日に東部戦線での144機撃墜の功により448人目の柏葉付騎士鉄十字勲章受勲者となった。 6月中にラングは、14日に150機目となるアメリカ陸軍航空軍(USAAF)のリパブリック P-47 サンダーボルト、20日には4分間で4機のノースアメリカン P-51 ムスタングに加え24日に更にP-51を4機を含む計15機を撃墜した。大尉となったラングは、その後6月28日に第26戦闘航空団(JG 26)/第II飛行隊の飛行隊長に任命された。ラングは7月9日に3機の英空軍のスーパーマリン スピットファイア(160から162機目)を、8月15日に2機のP-47を、25日には5分間で3機のロッキード P-38 ライトニングを撃墜した。8月26日にラングは最後となる2回の出撃でスピットファイアを3機(171から173機目)撃墜した。1944年5月24日から8月28日までにラングは西部戦線で9機のP-51 ムスタングを含む29機の撃墜を記録した。6月6日にラングの飛行隊はノルマンディー上空で100機撃墜に到達した初の飛行隊となり、8月30日付の国防軍報でラングにとり2度目で最後となる言及を受けた。
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