ドイツ空軍の誕生とその後
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「ドイツ航空省」の記事における「ドイツ空軍の誕生とその後」の解説
詳細は「ドイツ空軍 (国防軍)」を参照 ドイツ国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、航空戦力の重要性を考えると、もはや陸軍附属の組織として運営したのでは十分に機能することができないと判断した。1933年5月、ブロンベルクは陸軍航空部門(Luftschutzamt)を航空省へと移管した。これがドイツ空軍(Luftwaffe)の誕生であると考えられている。航空省はより大きな組織へと変化しつつ、二つの大きな部門、すなわち軍用機部局(LA)と民間航空部局(LB)を持つようになった。 エアハルト・ミルヒが初代次官に就任し、直接軍用機部局を統括することになった。 9月には部局間の重複を減らす目的で組織の再編が行われた。主な変更点は民間航空部局内にあった人事部および研究開発部を独立させたことである。再編の結果として航空省は6つの部局、すなわち軍用機部局(LA)、民間航空部局(LB)、技術開発部局(LC)、生産部局(LD)、訓練・人事部局(LP)、中央司令部局(ZA)を擁することになった。さらに、1934年には補給・兵站部局(LZM)が加えられた。 1936年6月にはエルンスト・ウーデットが技術開発部局長に就任している。 1939年の第二次世界大戦勃発以降のドイツ空軍の急速な成長にともない、航空省もゲーリング一人がコントロールすることができない程大きくなっていった。この時期には必要とされる航空機の開発は遅れ、機体やエンジンの生産も不振で、慢性的な機能不全を呈するようになっていた。1943年、軍用機生産の責任者がミルヒからアルベルト・シュペーアに替わると状況は劇的に改善された。シュペーアは硬直化した組織を風通しのよいものに変え、必要な改革を急速に進めた。その結果、航空機の生産は跳ね上がった。こうして1944年には、米英軍の激しい空襲の中ドイツの航空機生産量は最大に達した。 航空省は、ナチス・ドイツ敗戦の日まで様々なドイツ軍航空機の開発・製造に支配的な影響を与え続けた。
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