ドイツ空軍配下 - 初期の戦い
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「第1降下装甲師団」の記事における「ドイツ空軍配下 - 初期の戦い」の解説
1935年にゲーリングはドイツ空軍の最高司令官に昇進したが、お気に入りの部隊を跡に残していきたくなかったので部隊をドイツ空軍へ移籍させる命令を出し1935年9月にゲネラル・ゲーリング連隊(Regiment General Göring)に改称した。 部隊は再訓練に送り出されドイツ空軍の部隊として再装備を施された。この期間中に第I猟兵大隊(I.Jäger-Bataillon)と第15工兵中隊(15. Pionier-Kompanie)がデーベリッツへパラシュート訓練に送り出された。これらの部隊は1938年3月にゲネラル・ゲーリング連隊から分割され、最初の降下猟兵(Fallschirmjäger)部隊の第1降下猟兵連隊第I大隊(I./ Fallschirmjäger-Regiment 1)に再編された。 1936年初めにゲネラル・ゲーリング連隊は活動準備が整った。この時点ではNSDAPに対する全ての組織的な抵抗活動は壊滅させられるかドイツを離れていたため連隊はゲーリングの個人的な警護やヒトラーの司令部の 防空といった任務に充てられていた。 1938年3月のアンシュルスでのオーストリア併合の時、ゲネラル・ゲーリング連隊は国境を越えた最初の部隊の一つであった。同様に1938年10月のズデーテンラントへの侵攻と1939年3月のプラハ占領でも連隊は最初のドイツ占領軍の中にいた。 ポーランド侵攻ではゲネラル・ゲーリング連隊のごく一部しか戦闘に参加しなかった。部隊の大部分はベルリンに留まり防空やゲーリングとNSDAP幹部の身辺警護といった任務を続けていた。北欧侵攻では連隊の小部隊(警護大隊、オートバイ中隊と高射砲中隊)が作戦に参加し任務を果たした。 ゲネラル・ゲーリング連隊の基幹は第101高射砲連隊(FlaK-Regiment 101)と第103高射砲連隊(FlaK-Regiment 103)という偽の部隊名でドイツ - オランダ国境に配備された。黄色の場合の期間中、この部隊はオランダとベルギー侵攻に参加した。威容を誇るエバン・エマール要塞は降下猟兵により占拠/無力化されたがこの降下猟兵の多くは以前ゲネラル・ゲーリング連隊に所属していた。 オランダ降伏後、ゲネラル・ゲーリング連隊は幾つかの小さな戦闘集団に分割され、装甲師団の尖兵として配置された。連隊は再び本来の任務である対装甲車両攻撃用に運用された高射砲に特化した部隊に戻った。モルマル・ウッド(Mormal Wood)の戦いでは8.8 cm 18S 高射砲がフランスの戦車と僅か数ヤードの距離で交戦した。この戦いで連隊は実戦での不動の名声を獲得した[要出典]。 フランス降伏後、連隊は都市の高射砲防衛の任務のためにパリに呼び戻されるまで英国海峡沿岸に駐屯した。1940年遅くに連隊は以前の任務である要人警護と高射砲防衛に戻るためにベルリンに戻された。
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