エバン・エマール要塞とは? わかりやすく解説

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エバン・エマール要塞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 01:51 UTC 版)

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エバン・エマール要塞の見取り図
エバン・エマール要塞付近のオランダ及びベルギーの地図
指向性爆薬で穴があいたエバン・エマール要塞のドーム

エバン・エマール:Fort Eben-Emael, :Fort d'Ében-Émael)は、ベルギーの東部にあった要塞リエージュオランダマーストリヒトの間でアルベール運河沿いに存在した。第一次世界大戦において、ドイツの侵攻を受けたベルギーが再侵攻を防ぐために建設したものである。

沿革

第一次世界大戦後、ベルギーは中立による安全保障政策を取っていた。しかし、第一次世界大戦中にドイツの侵攻を受けたことから対ドイツ戦備が優先されていた。

ベルギー東部の拠点であるリエージュの防衛に必要な地点であり、ミューズ川の渡河点ともなるエバン・エマール村に要塞を建設することにより、ドイツ軍に対する防御拠点とすることとした。また、この要塞は、「万力の隙間」と呼ばれる南方への防御も担っていた。リエージュを南方から攻略しようとする敵に対する防衛要塞の構想は19世紀の終わりから存在した。この考えはアルベール運河が作られた後には、政治的に説得力のあるものとなった(オランダ領に入らず、ベルギー主要部への進入路が得られるため)。そのため、川と運河の間に要塞が配置される形で構築された。計画は1929年に承認され、1932年から建設が開始された。なお、アルベール運河は1931年から建設が開始されている。要塞は1935年に完成している。重防御により、エバン・エマール要塞は難攻不落と評された。

しかし、ドイツ軍は最初に要塞を攻略する計画を立てた。準備においてはエバン・エマールと良く似たチェコスロバキアの要塞において訓練を行った。[1] ドイツのアドルフ・ヒトラーグライダーにより要塞を手に入れ、トップシークレットの新兵器である成形炸薬弾を用いる計画を作成した。グライダーによる降下を利用する理由は、移動する飛行機から狭い地域に大量の人間をパラシュートで降下させることは困難で、降下時の混乱を避けるためである。

ドイツ降下猟兵

1940年5月10日朝、ドイツ第1降下猟兵師団(1st Fallschirmjäger Division)の降下猟兵が要塞にグライダーDFS 230)で降下した。ドイツ軍の降下時、要塞には約600名のベルギー軍がいたが、奇襲により主要な砲塔トーチカを破壊されてしまい、まもなく要塞は無力化された。翌日、陸上を進撃してきた第151狙撃兵連隊の支援の下、5月11日13時30分に要塞は完全に制圧された。(エバン・エマール要塞の戦い

ドイツ側の諜報能力と優れた計画、ベルギー側の不運と準備不足が1940年5月10日におけるヒトラーの計画を迅速で圧倒的な勝利とした。エバン・エマール要塞の占領は戦争においてグライダーを攻撃に使用した最初であり、同様に成型炸薬を最初に使用した戦いである。ヴィッツィヒにより率いられたグライダーは要塞の「屋根」に着陸した。そこで、彼らは砲塔を破壊し無効化するために成型炸薬を使用した。彼らは、機銃座に対して火炎放射器も使用した。ベルギー軍はドイツ軍に使用されないように重要な橋の1つを破壊したが、それは同時に要塞を救援する軍勢を到着させないことにもなった。

攻略後、要塞はV1兵器の地下工場として利用されたが、防御拠点としては使用されなかった。

この要塞の占領に使用した方法と同じくグライダーを使用して拠点を占領する作戦としては、戦争後期のノルマンディー上陸作戦においてイギリス軍がグライダーを用いて橋梁の占領を実施した(トンガ作戦)。

エバン・エマール要塞は現在、一般観光客に公開されている。

武装

120mm連装砲塔の設計

配備された主要兵器は120mm連装砲や75mm連装砲であり、コンクリート製の砲塔に収められていた。要塞の主要部はほとんど地下にあり、地上にあるのは一部のトーチカや砲塔、偽装陣地のみである。東側のアルベール運河に面した断崖にも砲が設置されている。エバン・エマールはダイアモンド型の要塞で、3つの主要な橋の防御と破壊を行う役割を担っていた。要塞の兵員の定数は約1,200名。

  • 75mm Mle1934加農砲 4門
  • 60mm対戦車砲 12門
  • 120mm Mle1931加農砲 2門
  • 75mm野戦加農砲 12門
  • 7.65mm FN M30 機関銃 11機
  • 7.65mm M12 マキシム機関銃 24機

外部リンク



エバン・エマール要塞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 01:09 UTC 版)

空挺突撃連隊」の記事における「エバン・エマール要塞」の解説

フリードリヒスハーフェン実験大隊(Versuchsabteilung Friedrichshafen)は1939年11月2日に第1降下猟兵連隊の第I大隊/第1中隊と第II大隊工兵小隊(Pionier-Zug)の基幹編成されたが、直ぐに指揮官ヴァルター・コッホ大尉因んでコッホ突撃大隊Sturmabteilung Koch)と改称された。 コッホ突撃大隊アルベール運河を守る近代的なエバン・エマール要塞と運河架かる3つの確保しベルギー中央部への道を切り拓くことを意図していた。防御部隊驚き橋の破壊ドイツ軍への反撃できないこと望んで突撃部隊静かに目標直上降ろせるように17./KGr z.b.V. 5 部隊DFS 230軍用グライダー使用されることになっていた。 1940年5月10日ベルギー侵攻のために大隊4つ突撃グループ(Sturmgruppen)に分けられた。11機のグライダー分乗し96から成るベトン突撃グループ(Sturmgruppe Betonコンクリート)は7名死亡24負傷損害出しながらもVroenhovenの確保し10機に分乗し90から成るカネ確保したアイゼン突撃グループ(Sturmgruppe Eisen、)では22死亡26負傷少なくとも対空砲火撃墜された1機には6名の生存者かいなかった91名がわずか9機に詰め込まれVeldwezeltの突入したシュタール突撃グループ(Sturmgruppe Stahl、鋼)は8名死亡16重傷16軽傷代償払い確保成功した。グラニット突撃グループ(Sturmgruppe Granit、花崗岩)は83名が11機で要塞の上降り立ち6名死亡20負傷要塞無力化したベルギー軍5月11日撤退するまで降下猟兵に対して如何なる有効な反撃も行うことができなかった。コッホ突撃大隊フランス侵攻ではそれ以上活動実施せず戦力回復のためにドイツへ引き揚げた。

※この「エバン・エマール要塞」の解説は、「空挺突撃連隊」の解説の一部です。
「エバン・エマール要塞」を含む「空挺突撃連隊」の記事については、「空挺突撃連隊」の概要を参照ください。

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