エバン・エマール要塞
エバン・エマール要塞
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「空挺突撃連隊」の記事における「エバン・エマール要塞」の解説
フリードリヒスハーフェン実験大隊(Versuchsabteilung Friedrichshafen)は1939年11月2日に第1降下猟兵連隊の第I大隊/第1中隊と第II大隊/工兵小隊(Pionier-Zug)の基幹で編成されたが、直ぐに指揮官のヴァルター・コッホ大尉に因んでコッホ突撃大隊(Sturmabteilung Koch)と改称された。 コッホ突撃大隊はアルベール運河を守る近代的なエバン・エマール要塞と運河に架かる3つの橋を確保し、ベルギー中央部への道を切り拓くことを意図していた。防御部隊が驚き、橋の破壊やドイツ軍への反撃ができないことを望んで突撃部隊を静かに目標の直上に降ろせるように17./KGr z.b.V. 5 部隊のDFS 230型軍用グライダーが使用されることになっていた。 1940年5月10日のベルギー侵攻のために大隊は4つの突撃グループ(Sturmgruppen)に分けられた。11機のグライダーに分乗した96名から成るベトン突撃グループ(Sturmgruppe Beton、コンクリート)は7名死亡、24名負傷の損害を出しながらもVroenhovenの橋を確保し、10機に分乗した90名から成るカネの橋を確保したアイゼン突撃グループ(Sturmgruppe Eisen、鉄)では22名死亡、26名負傷、少なくとも対空砲火で撃墜された1機には6名の生存者しかいなかった。91名がわずか9機に詰め込まれVeldwezeltの橋に突入したシュタール突撃グループ(Sturmgruppe Stahl、鋼)は8名死亡、16名重傷、16名軽傷の代償を払い橋の確保に成功した。グラニット突撃グループ(Sturmgruppe Granit、花崗岩)は83名が11機で要塞の上に降り立ち6名死亡、20名負傷で要塞を無力化した。 ベルギー軍は5月11日に撤退するまで降下猟兵に対して如何なる有効な反撃も行うことができなかった。コッホ突撃大隊はフランス侵攻ではそれ以上の活動は実施せず、戦力回復のためにドイツへ引き揚げた。
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エバン・エマール要塞
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「エバン・エマール要塞の戦い」の記事における「エバン・エマール要塞」の解説
グラニットグループに割り当てられた部隊を輸送する9機の残りのグライダーは着陸速度を遅らせ、素早く停止するためにパラシュートを使用、うまくエバン・エマール要塞の屋根に着陸した。降下部隊は素早くグライダーから外へ出てドイツ軍が占領した3つの橋を攻撃することができた火砲を収納した部分の要塞上に爆薬を設置した。要塞南部分(Objective No.18)では3つの75mm砲を収納した監視耐爆掩蔽設備は少量の爆薬で損害を受けた後、より激しい爆破で完全に破壊された。その爆発で砲郭の監視用ドームと要塞自体の屋根の一部が崩壊した。もう2門を要する横断する小塔(Objective No. 12)も空挺部隊によって破壊、その後、3門の75mm砲を要する小塔(Objective No. 26)へ移動した。爆薬はこれらを爆破し、その破壊を担当した降下部隊は移動したが、砲門のひとつは防衛部隊が素早く取り付いたため、降下部隊はそれを破壊するために2回目の襲撃をせざるを得なかった。ベルギー軍の住居として知られていたバラックにあった砲塔のもう一組の75mm砲は使用不能とされた。しかし別の目標(Objective No. 24)を破壊するのはうまくいかず、その目標は重連装銃が回転する対の小塔であり、グライダー1機に収容されていた降下部隊だけでは破壊するにはあまりにも重荷であったため、2機のグライダー分の部隊で攻撃せざるを得なかった。成型炸薬手榴弾は砲塔に設置され爆発はしたものの、それらは砲塔を揺らすだけで、破壊することはできず、他の降下部隊が砲塔によじ登り、砲身を打ち壊さなければならなかった。 要塞北部では降下部隊は火砲を収納している箇所を破壊するかさもなくば使用不可能にするために急行したため、ベルギー軍との競争が起こり、類似したことが発生していた。要塞西部の小塔(Objective No. 13)は要塞西部分全体を攻撃できる複数の機関銃を収納していた。この小塔を破壊するため、降下部隊は各武器に配置されるベルギー軍を撤退させるために火炎放射器を使用、それらを破壊するために成型炸薬手榴弾を使用した。機関銃を備え付けたもう一つの小塔(Objective No. 19)は破壊されたが、2つの別の目標、(Objectives, No. 15 No.16)は偽物であったことが発覚した。予想外の問題は格納式の75mm砲を備えた小塔(Objective No.23)で発生した 。この強化された武器では空中への攻撃ができないと予想されていたが、砲撃を行ったとき、これが間違いであることが発覚、その地域へ降下部隊が援護しにいかなければならなくなった。ここからの攻撃のため、上空の急降下爆撃隊に爆撃支援を行うことにつながり、爆弾は小塔を破壊することはできなかったが、この爆撃でベルギー軍が撤退することを強いることとなった。要塞駐屯部隊に反撃する機会を与えないために、降下部隊は全ての出入り口が駐屯部隊の動きを封じるために爆破された。降下部隊はドイツ軍が占領した橋を砲撃することができた要塞内の火砲を破壊するか、使用不可能にするという初期の目的は果たしたが、使用不可能にしなければならなかったいくつかの砲塔、砲床に直面したが、これらには対空砲、機関銃が装備されていた。 これら第2目標への攻撃が行われると共に、1機のグライダーが要塞上に着陸、そのグライダーにはヴィッツィヒ中尉が搭乗していた。一旦、彼の搭乗したグライダーがドイツ占領地区に着陸した後、ヴィッツィヒ中尉は同じ場所に着陸するグライダーのために無線連絡を入れた。そして彼とその同乗した降下部隊が航空機を妨げるフェンス、垣根を破壊、新たなグライダーが対空砲火の中を突き進んで要塞へ向けて引っ張られていた。要塞内の火砲を使用不能にするという彼らの目的を果たした後、降下部隊はベルギー軍の反撃に対応するため防御を固めたが、すぐさまベルギー軍の反撃が開始された。しかし、これらの反撃は砲兵の支援がなく歩兵連隊のみでまとまりなく行われたため、ドイツ降下部隊の機関銃の斉射で追い返された 。降下部隊は近辺に存在した小さな要塞のベルギー野戦砲兵隊からの砲撃目標とされたが、これもまとまりもなく、しばしばドイツ降下部隊がベルギー軍歩兵部隊の反撃を排除するのを支援する有様になってしまい何も成し遂げることはなかった。パトロールも要塞内の守備隊が内部にとどまり、要塞を再び取り返す行動を行うことを警戒するために行われた。反撃を行おうとするベルギー駐屯軍のどのような試みもその攻撃に唯一可能なルートが螺旋階段の上にあり、どのような出入り口もドイツ軍に占領されるか、使用不能にされており、事実上、反撃は不可能であった。攻撃計画ではグラニットグループが要塞を占領して数時間以内に第51工兵大隊が到着することになっていたが、結局5月11日午前7時まで到着しなかった。ベルギー軍工兵によってマース川の橋が幾つか破壊され、さらに猛烈なベルギー軍の抵抗により、大隊は新たな橋を築かなければならなかったが、作業はかなり遅れていた。一旦、降下部隊が大隊の救援を受けた後、工兵に続いて到着した歩兵連隊と共に、要塞の正面出入り口への攻撃を開始した。この攻撃に直面したベルギー守備隊は12時半に降伏したが、戦死60名、負傷40名を負うこととなった。1000名以上のベルギー兵は連行された。一方、グラニットグループは戦死6名、負傷19名であった。
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