とう‐しょう〔‐シヤウ〕【凍傷】
読み方:とうしょう
極度の寒気などのために皮膚の血行が悪くなり、組織に損傷をきたす状態。程度により四段階に分けられ、第1度は皮膚に充血・むくみが生じ、第2度はさらに水疱(すいほう)が生じ、第3度は皮下組織が壊死(えし)を起こし、第4度は手足の指などが脱落してしまうもの。《季 冬》
とう‐しょう〔タウシヤウ〕【刀傷】
とう‐しょう〔タウシヤウ〕【刀匠】
どう‐じょう〔ダウジヤウ〕【堂上】
とう‐しょう【東証】
読み方:とうしょう
「東京証券取引所」の略。
とう‐しょう〔タウシヤウ〕【湯傷】
読み方:とうしょう
熱湯によるやけど。
とう‐しょう〔‐シヤウ〕【痘×漿】
とう‐しょう〔‐シヤウ〕【登省】
とう‐しょう〔‐シヤウ〕【闘将】
董承
鄧升
トウショウ | (?~206?) | |
高幹の将。 建安十年(二〇五)、高幹は上党太守を人質に取って曹操に叛き、軍勢を挙げて壺口関に楯籠った。曹操の将楽進・李典が背後に回ろうとしたので壺関城に引き揚げたが、そこで楽進らを打ち破った。翌十一年正月、曹操が自ら軍勢を進めてきたので、高幹は夏昭・鄧升に城を守らせ、自分は匈奴単于に救援を求めにいった。鄧升らは三ヶ月間、曹操軍の包囲を凌いだが陥落した《武帝紀・袁紹伝・楽進伝》 |
陶升
トウショウ | ||
陶升はもともと内黄県の小役人であったが、黄巾賊の張角が蜂起すると、賊に身を落として平漢将軍を自称する。賊将はそれぞれ数千から三万の軍勢を率いていた《袁紹・張燕伝・後漢書袁紹伝》。 初平四年(一九三)三月上巳、冀州牧袁紹が公孫瓚征討の帰途、薄洛津において賓客たちを集めて大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆して黒山賊于毒らと手を結び、総勢数万人で鄴城を襲撃、太守栗成を殺害した。朝廷から正規の冀州牧として壺寿を迎え入れる《袁紹伝・後漢書同伝》。 袁紹や彼の部下の家族はみな鄴城内におり、恐怖のあまり青ざめたり泣き出したりする者がいた。陶升は于毒らの元にいたが、彼だけは袁紹に心を寄せ、配下の軍勢を引き連れて西城を乗り越え、役所の門を閉ざして賊徒どもを入れないようにした。そして袁紹の家族や州吏を車に乗せ、彼自身が護衛しながら斥丘へ送り届けた。袁紹は斥丘まで引き返すと、陶升を建義中郎将に取り立てる《袁紹伝・後漢書同伝》。 【参照】于毒 / 袁紹 / 壺寿 / 公孫瓚 / 張角 / 栗成 / 魏郡 / 冀州 / 鄴県 / 内黄県 / 薄洛津 / 太守 / 平漢将軍 / 牧 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 上巳 |
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