ジェファーソン・エアプレイン時代(1965年 - 1973年)
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「ジェファーソン・エアプレイン」の記事における「ジェファーソン・エアプレイン時代(1965年 - 1973年)」の解説
1960年代に吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン、その刺激を受けて続々と誕生した新世代のUSバンドを代表するグループだった。反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、「60年代カウンターカルチャー」の申し子とも見られた。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代に、バンドは最初のピークを迎えた。そのイメージから、日本では「サイケデリック・ロック」の代表格として語られる事も多いのだが、実際にはそのサイケ時代は短く、より幅広い音楽的要素を持っているバンドである。 バンド創設者、マーティ・バリンは1962年にポップス/R&Rシンガーとしてシングル・デビューし、その後サンフランシスコに移りダンサーで活躍したり、フォーク・グループに参加していたが、バンド・スタイルで自分のグループ結成を目論む。一方、根っからのフォーキーであるポール・カントナーはフォーク・シンガーとしてサンフランシスコのコーヒーハウスなどで活動していた。この2人が出会い中心に、1965年にジェファーソン・エアプレインの母体が出来上がりライブ・デビュー。RCAとの契約はサンフランシスコ・エリアのロックバンドで初メジャー契約のバンドとして一躍注目を集めた。当初はバリンのボーカルを中心に、1966年のデビュー・アルバム「テイクス・オフ(Takes Off)」 では、サンフランシスコ・ローカルのトップ・グループボーブラメルズ(Beau Brummels・英語版)の流れを汲む軽快な楽曲、フォーク・シーンでは堅実なブルース・ギターを得意にとしていたカウコネンらの演奏に、プロデュースと録音エンジニアを務めたデヴィッド・ハッシンジャー(:David Hassinger・英語版)のアレンジでフォーク/R&R/R&B/ブルースが混ざり合ったフォークロックだった。東海岸ニューヨークのラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクトなど派生したグループと西海岸サンフランシスコでは音楽傾向が異なった。フォークロック先駆にあたるバーズは1966年にアルバム「霧の5次元(Fifth Dimension)」を発表、この新奇な(ロックミュージックの)実験音楽が流行し電気増幅された楽器と音響装置の改良進化を反映したものだった。演劇と実験音楽やオペラなどの体験から独自に特徴ある男女3人によるボーカルハーモニーで一般的認知のギター/ベース・サウンドが絡むスタイルはほぼ確立されていった。 1967年の『Surrealistic Pillow』制作前にはグレイス・スリックが加入してバンドに一大飛躍をもたらす。そのカリスマ性を体現するかのような強力な歌声で、アルバムから「ホワイト・ラビット」 の中ヒット、「サムバディ・トゥ・ラブ:Somebody To Love」 の大ヒットが生まれた。また各メンバーも強烈に主張し始め、バリン作のメランコリックな曲、すでにホット・ツナを予感させるヨーマ・カウコネンの曲、3人のボーカルが絡み合う曲など、その後長らくバンドを彩る多様なスタイルがすでに現れていた。そして、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりエアプレインの名前は全米に広まった。この頃よりライブ照明にリキッドライトを導入している。 当初はバリンがリーダーだったが、3rdアルバムを制作する頃からは、独創性を発揮し始めたカントナーのリーダーシップや他メンバーの主張も台頭し、バンド内の力関係も変化し始める。傍目には危ういとさえ感じられるこの個性のぶつかり合いこそが、バンドを時代の頂点に押し上げる原動力になった。ちなみに、バリンはポップ・ソングやR&R/R&B、カントナーはフォーク・ミュージック、ギターのカウコネンはトラディショナルなブルースの追求者、ベースのジャック・キャサディはR&B、ブルーズ、R&R、ジャズと幅広く好み、ドラムスのスペンサー・ドライデンはジャズ出身という多様性を持っていた。 当時の大掛かりなフェスティバルにも、くまなく参加し1967~1969年にかけて人気はピークに達した。ひたすら新しい音楽表現を追求したサイケデリアの時代が過ぎ、1969年のウッドストック に出演する頃にはベトナム戦争が泥沼化、バンドは「反体制メッセージ」の代弁者としての存在感が増して行く。その中心は、政治的メッセージを発するカントナーと、カリスマ性が頂点に達したスリックに移っていた。また、演奏スタイルも1970年代に入る頃にはストレートで、ややハードなものに変化していった。 一方、余りにも過酷になった活動の中で、よりパーソナルな音楽活動を望むカウコネンとキャサディは1969年ごろからブルーズ・デュオ:ホット・ツナ・Hot Tunaの原型をスタート。西海岸のミュージシャンとPlanet Earth Rock and Roll Orchestraと呼ぶセッションを活発に行なっていたカントナーは、1970年に自己のプロジェクトユニット、Paul Kantner Jefferson Starship名義でのアルバムを発表した(ここでスターシップという次のコンセプトが生まれた。理屈の通らない権力者などは相手にせず理想を追求する人達で宇宙に脱出しようというストーリーは、1969年発表の曲「Wooden Ships」が原点。)。さらに、1969年12月6日オルタモント・フリーコンサートの出演では、観客の喧嘩に直接仲裁へステージから飛び降りたバリンに暴徒の一人が殴りかかり、その場で卒倒失神する傷害事件発生やジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンの死を契機に、バリンは音楽活動自体を見直したいと考えるようになり、自分が作ったバンドから1971年に脱退。 RCAとの契約期間が終了したバンドは、このような状況においても1971年に自分達のインディペンデント・レーベル「GRUNT(グラント)」を設立し、同年、エアプレインとしてミリオンセラーのスタジオ作『Bark(バーク)』を制作。他のアーティストとも契約して作品をリリースするなど、チャレンジは続けた。しかしこの時期、L.A.勢力の台頭など音楽シーンの新旧交代も影響してエアプレインとしての活動は停滞。カントナーはスリックのソロを含むプロジェクト作品を1973年までに更に3枚制作してスターシップのコンセプトを発展、ホット・ツナもアルバム制作を続けるなど、各々のソロ活動が本格的になり、外に向かって行った。 1972年に最後のツアーが行なわれた後、翌1973年にはそのライブ盤がリリースされた。しかし、Hot Tuna組の2人は完全にバンドを離れてしまい、ジェファーソン・エアプレインは正式に解散した。
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