ジェファーソン・エアプレイン時代とは? わかりやすく解説

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ジェファーソン・エアプレイン時代(1965年 - 1973年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:51 UTC 版)

ジェファーソン・エアプレイン」の記事における「ジェファーソン・エアプレイン時代(1965年 - 1973年)」の解説

1960年代吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン、その刺激受けて続々誕生した新世代のUSバンド代表するグループだった。反体制薬物体験歌った歌詞などにより、「60年代カウンターカルチャー」の申し子とも見られた。また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージ象徴されるサイケデリアの時代に、バンド最初ピーク迎えた。そのイメージから、日本ではサイケデリック・ロック」の代表格として語られる事も多いのだが、実際にはそのサイケ時代短く、より幅広い音楽的要素持っているバンドである。 バンド創設者、マーティ・バリンは1962年ポップス/R&Rシンガーとしてシングル・デビューし、その後サンフランシスコ移りダンサー活躍したり、フォーク・グループに参加していたが、バンド・スタイルで自分グループ結成目論む一方根っからフォーキーであるポール・カントナーはフォーク・シンガーとしてサンフランシスココーヒーハウスなどで活動していた。この2人出会い中心に1965年ジェファーソン・エアプレイン母体出来上がりライブ・デビュー。RCAとの契約サンフランシスコ・エリアロックバンドで初メジャー契約バンドとして一躍注目集めた当初はバリンのボーカル中心に1966年デビュー・アルバム「テイクス・オフ(Takes Off)」 では、サンフランシスコ・ローカルのトップ・グループボーブラメルズ(Beau Brummels・英語版)の流れを汲む軽快楽曲、フォーク・シーンでは堅実なブルース・ギターを得意にとしていたカウコネンらの演奏に、プロデュース録音エンジニア務めたデヴィッド・ハッシンジャー(:David Hassinger・英語版)のアレンジフォーク/R&R/R&B/ブルース混ざり合ったフォークロックだった。東海岸ニューヨークラヴィン・スプーンフルやブルース・プロジェクトなど派生したグループ西海岸サンフランシスコでは音楽傾向異なったフォークロック先駆にあたるバーズ1966年アルバム霧の5次元Fifth Dimension)」を発表、この新奇なロックミュージックの)実験音楽流行し電気増幅され楽器音響装置改良進化反映したのだった演劇実験音楽オペラなどの体験から独自に特徴ある男女3人によるボーカルハーモニーで一般的認知ギター/ベース・サウンドが絡むスタイルはほぼ確立されていった1967年の『Surrealistic Pillow制作前にグレイス・スリック加入してバンド一大飛躍もたらす。そのカリスマ性体現するのような強力な歌声で、アルバムから「ホワイト・ラビット」 の中ヒット、「サムバディ・トゥ・ラブ:Somebody To Love」 の大ヒット生まれた。また各メンバー強烈に主張し始め、バリン作のメランコリックな曲、すでにホット・ツナを予感させるヨーマ・カウコネンの曲、3人のボーカル絡み合う曲など、その後長らくバンド彩る多様なスタイルがすでに現れていた。そして、モンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演によりエアプレインの名前は全米広まったこの頃よりライブ照明リキッドライト導入している。 当初はバリンがリーダーだったが、3rdアルバム制作する頃からは、独創性発揮し始めたカントナーのリーダーシップ他メンバー主張台頭しバンド内の力関係変化し始める。傍目には危ういとさえ感じられるこの個性ぶつかり合いこそが、バンド時代頂点押し上げる原動力になったちなみに、バリンはポップ・ソングやR&R/R&B、カントナーはフォーク・ミュージックギターのカウコネンはトラディショナルブルース追求者、ベースのジャック・キャサディはR&BブルーズR&Rジャズ幅広く好みドラムスのスペンサー・ドライデンはジャズ出身という多様性持っていた。 当時大掛かりなフェスティバルにも、くまなく参加し19671969年にかけて人気ピーク達したひたすら新し音楽表現追求したサイケデリアの時代が過ぎ、1969年ウッドストック出演する頃にはベトナム戦争泥沼化バンドは「反体制メッセージ」の代弁者としての存在感増して行く。その中心は、政治的メッセージ発するカントナーと、カリスマ性頂点達したスリック移っていた。また、演奏スタイル1970年代に入る頃にはストレートで、ややハードなものに変化していった。 一方余りにも過酷になった活動の中で、よりパーソナル音楽活動を望むカウコネンとキャサディは1969年ごろからブルーズ・デュオ:ホット・ツナ・Hot Tuna原型スタート西海岸ミュージシャンPlanet Earth Rock and Roll Orchestraと呼ぶセッション活発に行なっていたカントナーは、1970年自己のプロジェクトユニットPaul Kantner Jefferson Starship名義でのアルバム発表した(ここでスターシップという次のコンセプト生まれた理屈通らない権力者などは相手にせず理想追求する人達で宇宙脱出しようというストーリーは、1969年発表の曲「Wooden Ships」が原点。)。さらに、1969年12月6日オルタモント・フリーコンサート出演では、観客喧嘩直接仲裁ステージから飛び降りたバリンに暴徒一人殴りかかり、その場卒倒失神する傷害事件発生ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンの死を契機に、バリンは音楽活動自体見直したいと考えるようになり、自分作ったバンドから1971年脱退RCAとの契約期間が終了したバンドは、このような状況においても1971年自分達のインディペンデント・レーベルGRUNTグラント)」を設立し同年エアプレインとしてミリオンセラースタジオ作『Barkバーク)』を制作他のアーティストとも契約して作品リリースするなど、チャレンジ続けた。しかしこの時期L.A.勢力台頭など音楽シーン新旧交代影響してエアプレインとしての活動停滞。カントナーはスリックソロを含むプロジェクト作品1973年までに更に3枚制作してスターシップコンセプト発展、ホット・ツナもアルバム制作続けるなど、各々ソロ活動本格的になり、外に向かって行った1972年最後ツアーが行なわれた後、翌1973年にはそのライブ盤リリースされた。しかし、Hot Tuna組の2人は完全にバンド離れてしまい、ジェファーソン・エアプレイン正式に解散した

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