RCAとの契約
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「エルヴィス・プレスリー」の記事における「RCAとの契約」の解説
プレスリーは1955年11月21日にRCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。 1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。 レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。 後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。 プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。 1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた。また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった。
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