商業的成功への回帰とは? わかりやすく解説

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商業的成功への回帰 (1977年-1985年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:59 UTC 版)

キンクス」の記事における「商業的成功への回帰 (1977年-1985年)」の解説

RCAとの契約終了した後、キンクス1976年アリスタ・レコード契約したアリスタ経営陣励ましにより、彼らは5人のコアグループに戻り、アリーナロックバンドとして生まれ変わったジョン・ダルトンは、アリスタでのデビューアルバムセッション終え前にバンド去った彼の代わりにアンディ・パイルが加入しセッション完了次のツアー貢献した1977年リリースされた『スリープウォーカー』は、ビルボードチャートで最高21位を記録しグループ成功への回帰示した同作リリース次回作『ミスフィッツ』のレコーディング終了後に、アンディ・パイルとキーボーディストのジョン・ゴスリングがグループ脱退、彼らは別のプロジェクトに共に取り組んだ。『ミスフィッツ』は1978年5月リリースされた。収録曲の「ロックン・ロール・ファンタジー」はアメリカでトップ40ヒットとなり、アルバムバンドにとっての別の成功導いたシングルファーザー・クリスマス」は現在でも人気の曲である。セッションドラマーのヘンリー・スピネッティのドラムデイヴ・デイヴィスヘビーギター駆り立てられる同曲は、主流ラジオ古典的な季節のお気に入りとなったアルバム発表後ツアーでは、バンドは元アージェントベーシストであるジム・ロッドフォードと元プリティ・シングスキーボード奏者であるゴードン・エドワーズを採用したエドワーズはすぐにレコーディングセッション参加できなかったためにバンド解雇され1979年の『ロウ・バジェット』は4人で制作レイキーボード担当したアルバム発表後ツアーでイアン・ギボンズが起用されその後正式メンバーとなったメンバーの入れ替わりがあったにも関わらずバンドレコードライヴ人気高まり続けた1970年代後半から、ザ・ジャム(「デヴィッド・ワッツ」)、プリテンダーズ(「ストップ・ユア・ソビング」、「アイ・ゴー・トゥ・スリープ」)、ロマンティックス(「Hung On You」)、ザ・ナック(「ハードに生きろ」)らがキンクスの曲をカバーしグループ新作注目を集めるのに貢献した1978年ヴァン・ヘイレンキンクスカバーユー・リアリー・ガット・ミー」でデビューしアメリカでトップ40ヒット記録バンド商業的復活後押しした。(ヴァン・ヘイレンは後にキンクス初期の曲であり、デヴィッド・ボウイ1973年に『ピンナップス』で取り上げた「Where Have All the Good Times Gone」をカバーした。)1979年リリースされた『ロウ・バジェット』のハードロック・サウンドは、同作キンクス2枚目のゴールドアルバムとし、アメリカでオリジナルアルバム最高となるチャート11位を記録した1980年バンド3枚目のライヴアルバムワン・フォー・ザ・ロード』が、同タイトルビデオと共にリリースされバンドコンサート集客力ピーク達し、それは1983年まで続いたデイヴ・デイヴィスまた、バンド改善され商業的成功利用してソロアルバムリリースするという10年来野望実現した1枚目は1980年の『デイヴ・デイヴィス』であり、同作ジャケット自身肖像で顔の部分バーコードになっているものであった。このアルバムカタログ番号の「AFL1-3603」としても知られる2枚目は1981年の『グラマー』であり、これはあまり成功しなかった。 次のアルバムギヴ・ザ・ピープル・ホワット・ゼイ・ウォント』は1981年後半リリースされアメリカで15位に達した。このアルバムはゴールドアルバムを獲得しイギリスでのヒットシングル「ベター・シングス」とグループ主要なメインストリームロックのヒットである「デストロイヤー」をフィーチャーした。アルバムプロモーションキンクス1981年終わりから1982年大半にかけて精力的にツアー行いオーストラリア日本イギリスアメリカでは複数回のソールドアウト・コンサートを行ったツアーカリフォルニア州サンバーナーディーノ開催されUSフェスティバルでの205,000人の観客の前で行ったパフォーマンス最高潮達した1983年の春、「カム・ダンシング」が「ウェイティング・フォー・ユー」以来アメリカにおける最大ヒット曲となり、最高6位を記録した。またイギリスでは1972年以来トップ20ヒットとなり、最高12位を記録した収録アルバムステイト・オヴ・コンフュージョン』も同様にヒットしアメリカでは最高12位に達したが、1967年以降キンクスアルバム同様にイギリスではチャートインできなかった。アルバムからのもう一つシングル思い出ダンス」は、アメリカでトップ30入りイギリスではマイナーなチャートエントリーしたキンクス二度目人気の波は『ステイト・オヴ・コンフュージョン』でピーク達したが、その成功薄れ始めた。この傾向は、同時代のブリティッシュ・ロックバンド、ローリング・ストーンズザ・フーにも影響及ぼした1983年後半レイ・デイヴィス野心的なソロ映画プロジェクト、『リターン・トゥ・ウォータールー』の作業開始した。これは連続殺人犯であることを空想するロンドン通勤者についての物語である。この映画では若き頃俳優ティム・ロス重要な役を演じている。新し作品書き監督し作曲するというレイコミットメントは、デイヴとの関係に緊張引き起こしたもう一つ問題は、クリッシー・ハインドとの波乱満ちた関係の終焉であったデイヴ・デイヴィスドラマーミック・エイヴォリーの間の古い確執再燃したデイヴ最終的にエイヴォリーとの協力拒否しアージェントの元ドラマーであるボブ・ヘンリット(ジム・ロッドフォードもメンバーだった)に参加求めた。エイヴォリーはバンド去り、ヘンリットが加入した。まだエイヴォリーと親しかったレイは、彼にコンク・スタジオのマネジャー依頼した。エイヴォリーはそれを受け入れその後キンクスアルバムプロデューサー時折ミュージシャンとして貢献した。 『リターン・トゥ・ウォータールー』の完成からエイヴォリーの脱退までの間に、バンド1984年11月リリースされ最後アリスタでのアルバムである『ワード・オブ・マウス』の作業開始した本作では3曲にエイヴォリーが参加し残りはヘンリットと、ドラムマシン使用して録音された。本作収録曲は、レイの『リターン・トゥ・ウォータールー』のサウンドトラックにも何曲か収録された。1曲目の「ドゥ・イット・アゲイン」は、1985年4月シングルとしてリリースされBillboard Hot10041位を記録したが、バンドにとって最後チャートインとなったアルバムのリリース同時にキンクスに関する最初の3冊の本が出版された。ジョン・サヴェージによる「The Kinks: The Official Biography」、ロック評論家のジョン・メンデルゾーン(1972年コンピレーションアルバム『サ・キンク・クロニクルズ』を監修している。)による「The Kinks Kronikles」、ジョニー・ローガンによる「The Kinks - The Sound And The Fury」(アメリカではThe Kinks - A Mental Institution」)である。

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