商業的成功への回帰 (1977年-1985年)
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「キンクス」の記事における「商業的成功への回帰 (1977年-1985年)」の解説
RCAとの契約が終了した後、キンクスは1976年にアリスタ・レコードと契約した。アリスタの経営陣の励ましにより、彼らは5人のコアグループに戻り、アリーナロックバンドとして生まれ変わった。ジョン・ダルトンは、アリスタでのデビューアルバムのセッションを終える前にバンドを去った。彼の代わりにアンディ・パイルが加入し、セッションの完了と次のツアーに貢献した。1977年にリリースされた『スリープウォーカー』は、ビルボードチャートで最高21位を記録し、グループの成功への回帰を示した。同作のリリースと次回作『ミスフィッツ』のレコーディング終了後に、アンディ・パイルとキーボーディストのジョン・ゴスリングがグループを脱退、彼らは別のプロジェクトに共に取り組んだ。『ミスフィッツ』は1978年5月にリリースされた。収録曲の「ロックン・ロール・ファンタジー」はアメリカでトップ40のヒットとなり、アルバムをバンドにとっての別の成功に導いた。シングル「ファーザー・クリスマス」は現在でも人気の曲である。セッションドラマーのヘンリー・スピネッティのドラムとデイヴ・デイヴィスのヘビーなギターに駆り立てられる同曲は、主流のラジオで古典的な季節のお気に入り曲となった。アルバム発表後のツアーでは、バンドは元アージェントのベーシストであるジム・ロッドフォードと元プリティ・シングスのキーボード奏者であるゴードン・エドワーズを採用した。エドワーズはすぐにレコーディングセッションに参加できなかったためにバンドを解雇され、1979年の『ロウ・バジェット』は4人で制作、レイがキーボードを担当した。アルバム発表後のツアーでイアン・ギボンズが起用され、その後正式メンバーとなった。メンバーの入れ替わりがあったにも関わらず、バンドのレコードやライヴの人気は高まり続けた。 1970年代後半から、ザ・ジャム(「デヴィッド・ワッツ」)、プリテンダーズ(「ストップ・ユア・ソビング」、「アイ・ゴー・トゥ・スリープ」)、ロマンティックス(「Hung On You」)、ザ・ナック(「ハードに生きろ」)らがキンクスの曲をカバーし、グループの新作に注目を集めるのに貢献した。1978年、ヴァン・ヘイレンがキンクスのカバー「ユー・リアリー・ガット・ミー」でデビューし、アメリカでトップ40のヒットを記録、バンドの商業的復活を後押しした。(ヴァン・ヘイレンは後にキンクス初期の曲であり、デヴィッド・ボウイも1973年に『ピンナップス』で取り上げた「Where Have All the Good Times Gone」をカバーした。)1979年にリリースされた『ロウ・バジェット』のハードロック・サウンドは、同作をキンクス2枚目のゴールドアルバムとし、アメリカでオリジナルアルバム最高となるチャート11位を記録した。1980年にバンドの3枚目のライヴアルバム『ワン・フォー・ザ・ロード』が、同タイトルのビデオと共にリリースされ、バンドのコンサート集客力のピークに達し、それは1983年まで続いた。デイヴ・デイヴィスはまた、バンドの改善された商業的成功を利用して、ソロアルバムをリリースするという10年来の野望を実現した。1枚目は1980年の『デイヴ・デイヴィス』であり、同作のジャケットは自身の肖像で顔の部分がバーコードになっているものであった。このアルバムはカタログ番号の「AFL1-3603」としても知られる。2枚目は1981年の『グラマー』であり、これはあまり成功しなかった。 次のアルバム『ギヴ・ザ・ピープル・ホワット・ゼイ・ウォント』は1981年後半にリリースされ、アメリカで15位に達した。このアルバムはゴールドアルバムを獲得し、イギリスでのヒットシングル「ベター・シングス」とグループの主要なメインストリームロックのヒットである「デストロイヤー」をフィーチャーした。アルバムのプロモーションでキンクスは1981年の終わりから1982年の大半にかけて精力的にツアーを行い、オーストラリア、日本、イギリス、アメリカでは複数回のソールドアウト・コンサートを行った。ツアーはカリフォルニア州サンバーナーディーノで開催されたUSフェスティバルでの205,000人の観客の前で行ったパフォーマンスで最高潮に達した。1983年の春、「カム・ダンシング」が「ウェイティング・フォー・ユー」以来のアメリカにおける最大のヒット曲となり、最高6位を記録した。またイギリスでは1972年以来のトップ20ヒットとなり、最高12位を記録した。収録アルバム『ステイト・オヴ・コンフュージョン』も同様にヒットし、アメリカでは最高12位に達したが、1967年以降のキンクスのアルバムと同様に、イギリスではチャートインできなかった。アルバムからのもう一つのシングル「思い出のダンス」は、アメリカでトップ30に入り、イギリスではマイナーなチャートにエントリーした。 キンクスの二度目の人気の波は『ステイト・オヴ・コンフュージョン』でピークに達したが、その成功は薄れ始めた。この傾向は、同時代のブリティッシュ・ロックバンド、ローリング・ストーンズやザ・フーにも影響を及ぼした。1983年の後半、レイ・デイヴィスは野心的なソロ映画プロジェクト、『リターン・トゥ・ウォータールー』の作業を開始した。これは連続殺人犯であることを空想するロンドンの通勤者についての物語である。この映画では若き頃の俳優のティム・ロスが重要な役を演じている。新しい作品を書き、監督し、作曲するというレイのコミットメントは、デイヴとの関係に緊張を引き起こした。もう一つの問題は、クリッシー・ハインドとの波乱に満ちた関係の終焉であった。デイヴ・デイヴィスとドラマーのミック・エイヴォリーの間の古い確執も再燃した。デイヴは最終的にエイヴォリーとの協力を拒否し、アージェントの元ドラマーであるボブ・ヘンリット(ジム・ロッドフォードもメンバーだった)に参加を求めた。エイヴォリーはバンドを去り、ヘンリットが加入した。まだエイヴォリーと親しかったレイは、彼にコンク・スタジオのマネジャーを依頼した。エイヴォリーはそれを受け入れ、その後のキンクスのアルバムでプロデューサーと時折ミュージシャンとして貢献した。 『リターン・トゥ・ウォータールー』の完成からエイヴォリーの脱退までの間に、バンドは1984年11月にリリースされた最後のアリスタでのアルバムである『ワード・オブ・マウス』の作業を開始した。本作では3曲にエイヴォリーが参加し、残りはヘンリットと、ドラムマシンを使用して録音された。本作の収録曲は、レイの『リターン・トゥ・ウォータールー』のサウンドトラックにも何曲か収録された。1曲目の「ドゥ・イット・アゲイン」は、1985年4月にシングルとしてリリースされ、Billboard Hot100で41位を記録したが、バンドにとって最後のチャートインとなった。アルバムのリリースと同時に、キンクスに関する最初の3冊の本が出版された。ジョン・サヴェージによる「The Kinks: The Official Biography」、ロック評論家のジョン・メンデルゾーン(1972年のコンピレーションアルバム『サ・キンク・クロニクルズ』を監修している。)による「The Kinks Kronikles」、ジョニー・ローガンによる「The Kinks - The Sound And The Fury」(アメリカでは「The Kinks - A Mental Institution」)である。
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