商業的成功と精神的苦境、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:20 UTC 版)
「カート・コバーン」の記事における「商業的成功と精神的苦境、そして死」の解説
詳細は「カート・コバーンの死」を参照 1991年のシングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」とアルバム『ネヴァーマインド』の発表は、バンドと当時のロックシーン両方の流れに大きな影響を与えた。 彼らはメジャーでの最初のアルバムから大成功を収めたが、カートは『ネヴァーマインド』の成功に葛藤を感じていたとされる。元々、アンダーグラウンドなシーンをルーツとするカートは、この大成功によって自身の信念を裏切ってしまったように感じており、メディアの伝える彼の姿と本来の自分の姿との乖離に大きな戸惑いを感じてもいた。また、彼自身『ネヴァーマインド』制作の際、ある程度メジャー市場を意識して曲作りを行っていたことで自身にも強い憤りを感じていた。そのため、プロデューサーにスティーヴ・アルビニを迎え制作されたアルバム『イン・ユーテロ』は前作のメジャー志向からアンダーグラウンド志向へと回帰したものとなったが、賛否両論のアルバムとなる。 その後も自身のイメージや思い通りに曲が作れない苛立ち、また少年時代からのうつ病と20歳頃からの持病であった原因不明の胃痛に対する鎮痛剤として使用したことに端を発する薬物依存症に苦しみ、ローマでの自殺未遂を経た末、1994年4月5日、シアトルの自宅で薬物を服用の上、ショットガンで頭部を撃ち抜いて自殺しているのが発見される。指揮者のデビッド・ウッダードはコバーン用のドリーマシンを製作したが:355–366、コバーンが自殺に至るまでの数日間にデバイスを過度に使用していたとの報告は、後の発見と矛盾していた。警察の報告によると、死亡推定日は4月5日。遺書には強烈な筆圧で、親交のあったニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞の一部「It's better to burn out than to fade away(だんだん消えていくよりも燃え尽きる方がいい)」が引用され、ステレオからはR.E.M.のアルバム『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』が流れっぱなしになっていた。 没年齢の27歳は、ロバート・ジョンソンやジミ・ヘンドリックス、ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリンが亡くなった年齢と一緒であり、カートの母は「あの子は愚か者のクラブに仲間入りしてしまった」と嘆いたという。 後にデイヴ・グロールは、カートの死を次のように回想している。 「 カートが死んだ翌日のことを今でも覚えているけど、「彼はいなくなってしまったんだ」と思ったんだよ。「一体どうやったら人間がそうやってただ消えてしまえるんだ。狂ってる」ってね。カートは本当に突然いなくなってしまったわけだからね 」 2014年3月、シアトル市警が彼の死亡現場に残されていた遺品30点を新たに公開した。 2015年7月、他殺説を訴えるリチャード・リーによって、カートの死亡現場の写真を警察が公開するよう訴える訴訟がなされたが、訴えは棄却された。 2016年3月、シアトル市警が、カートが自ら命を絶つときに使用したショットガンの画像を初めて公開した。
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