商業的敗退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)
1925年にフォードが横浜に設立した工場でT型の組み立てを開始し、1927年(昭和2年)4月にはゼネラルモーターズ(GM)が大阪工場を稼働させ、両社は日本国内でノックダウン生産を本格化させた。これにより、両社の製品に価格面でも性能面でも歯が立たない白楊社は、日本の他の小規模な自動車メーカーと同様、厳しい状況に追い込まれた。 オートモ号は発売当初から採算割れの販売を続けていたが、海外メーカーに対抗する必要から、発売直後の1924年末時点で1,580円だった価格は、1925年11月には1,280円、1927年3月には985円まで値下げされた(詳細は#価格推移を参照)。後年の豊川の述懐によれば、オートモ号は1台あたり1,000円の赤字販売であり、そうした状況が続いたことは白楊社が閉鎖となる直接の原因となった。 白楊社は解散を余儀なくされ、1928年(昭和3年)春にオートモ号の生産は終了した。オートモ号は最終的に200台以上の販売を記録した(詳細は#生産台数を参照)。
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