ジェファーソン・スターシップ時代とは? わかりやすく解説

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ジェファーソン・スターシップ時代(1974年 - 1984年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:51 UTC 版)

ジェファーソン・エアプレイン」の記事における「ジェファーソン・スターシップ時代(1974年 - 1984年)」の解説

エアプレイン解散の翌1974年、カントナー・プロジェクト(1970-1973)のメンバーベースグレイス・スリック1stソロプロモートするツアー行なう事になり、バンド名をパーマネントバンドとしてのジェファーソン・スターシップ決定メンバーは、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ディヴィッド・フライバーグ、パパ・ジョン・クリーチ、ジョン・バーベイタのエアプレイン最終組に、ギタリストのクレイグ・チャキーソ、ベーシスト/ギタリストにピーター・カウコネン(ヨーマの実弟)を加えたもの。この公演の後、ピーター・カウコネンがピート・シアーズに交代して1stアルバムDragon Fly』 が制作された。 このように、ある時期を境にエアプレインからスターシップに単に改名されたのではなく、「エアプレイン」と「カントナーのスターシップ」が平行して活動しエアプレイン解散した後でスターシップ改めデビューしたのが経緯だった。1stアルバムライブにはマーティ・バリンが早くもゲスト参加し、その曲「Caroline」はFMステーションヘビーローテーションになる。2ndアルバムRed Octopus』(エアプレイン以来初の全米最高1位獲得)からはバリンがフルタイム復帰し彼の作品ミラクルズMiracles」(シングルチャート最高3位)が大ヒット同年の「ランナウェイ」も好評だった。さらに78年には、「カウント・オン・ミー」もヒットした復活したバリン/スリック/カントナーのコーラスワーク新しいバンド・アンサンブルに載せて一気人気グループの座を奪還したエアプレインとは大幅に異な音楽取り入れて1970年代ロックシーンメインストリーム登場した形だが、この時はメンバー自身主導して掴んだ成功であり、1980年代起きた変化後述)とは異なっていたと言える1970年代ロックシーン通用する音楽作りという面では、作曲編曲大活躍を見せたピート・シアーズの手腕が大きく貢献したまた、カウコネンとは全く違ったコンテンポラリースタイルを持つクレイグ・チャキーソも演奏作曲活躍した4年余り続いたこのジェファーソン・スターシップ全盛期には、音楽的にバリンの存在感大きくなり、エアプレイン結成以来ようやく彼の理想的なバンド実現した時代でもあった。そして彼だけでなく、グレイス・スリック歌唱力生かした曲や、エアプレイン以来のボーカル・ワークを生かした曲も数多く生まれ、4アルバム成功を収めるバンドとして調和もとれた時期だった。しかし、長らくバンドシンボルであり続けたスリックが、精神的安定から深刻なドラッグ中毒トラブル抱え一時脱退余儀なくされる(1978年-1981年)。リードシンガーはマーティ・バリン一人という体制ツアー続け1978年にはこの編成での最終シングルLight The Sky on Fire」を発表。これは、アメリカTV版Star Wars Holiday Special』のテーマ曲になり、バンド演奏シーン出演したこの後ドラマーのジョン・バーベイタが自動車事故活動できなくなりエインズレー・ダンバー参加するバンドは、ラブ・バラード等を極力減らしてより強力な音楽イメージチェンジを図ることを決め新作のためのリハーサル/レコーディングに入る。しかし、再びバリンがバンド離れる事態になり、後任として南部出身ミッキー・トーマス起用完成され1979年の『Freedom At Point Zero』は、トーマス声質生かしたハードロック路線だった。TOTOハード・ロックシングル盤ジェーン」はまずまず成功収めたが、60年代以来ファンからは産業ロック志向であるとの否定的な評価受けた。その延長線上で創られた1981年の『Modern Times』にはグレイス・スリックゲストとして参加、さらに1982年の『Winds Of Change』では正式復帰したバンド万全の体制回復したかに見えたのだが、1980年代初頭から方向性の模索続けなければならない状況に陥っていた。レコード会社は、当時メインストリームになったジャーニー/ボストン/ヴァン・ヘイレン/カンサス/スティクス/ナイト・レンジャー/TOTO、REOスピードワゴンフォリナーといった産業ロック/スタジアム・ロック・スタイルのヒット曲要求。そして、さらに急速に変化する音楽シーンMTV全盛期突入し音楽ビジネス先端は、ビジュアル戦略にも重きを置いたマドンナマイケル・ジャクソンなどのポップ・ソング移って行った会社1960年代以来のベテラン・アーティストに厳し対処をするようになり、ジェファーソンらしい音楽急激に失なわれ、メンバー間の対立深刻になった。それは一般的に伝えられたような、カントナーひとりが浮いてしまったという単純なものではなかった。より若いターゲット向けてコンテンポラリーMTV路線志向するようになったミッキー・トーマス/クレイグ・チャキーソ/ドニー・ボールドウィン、それに対してシンセサイザー/コンピューター多用しながらも従来通りコアなロック・ファンにアピールしたい考えるポール・カントナー/ピート・シアーズ/ディヴィッド・フライバーグの2派に別れ最後の切り札を握るのがグレイス・スリックという構図だったと伝えられるこの間、マーティー・バリンは81年に「ハーツハート悲しく)」のヒット放った。カントナーは13年ぶりにソロ・プロジェクトでの制作復活、「Planet Earth Rock And Roll Orchestra名義でのソロ・アルバムPlanet Earth Rock And Roll Orchestra』を発表、こちらの方が、本来のジェファーソンサウンドが展開されている作品だった。続くジェファーソン・スターシップの『Nuclear Furniture』では、当時最新エレクトロ・ポップ大幅に導入。ここで本来のコンセプト・メーカーであったカントナーが突出してバンド対立するうになる

※この「ジェファーソン・スターシップ時代(1974年 - 1984年)」の解説は、「ジェファーソン・エアプレイン」の解説の一部です。
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