ジェファーソンとジェファーソン派の原則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 10:09 UTC 版)
「ジェファーソン流民主主義」の記事における「ジェファーソンとジェファーソン派の原則」の解説
ジェファーソン流民主主義は一人の者が操作したものではなかった。地方や州の多くの指導者、および多くの派閥がある大きな政党であり、常にジェファーソンと、また党員の中で互いに意見が一致しているわけではなかった 。 ジェファーソンはその敵対者から首尾一貫性が無いと非難された。「オールド共和党員」はジェファーソンが1797年原則を放棄したと言った。ジェファーソンは国家の安全保障への関心が急務だったので、憲法を修正するのを待たず、ルイジアナを購入する必要があると考えた。また1807年通商禁止法では連邦政府の権限を拡大した。自身が郷士のプランテーション所有者であるにも拘わらず、「ヨーマン」を理想化した。その哲学と実行面の不一致は、多くの歴史家が挙げていることである。スターロフは、ジェファーソンが元々のロマンチストであるためだとしている。ジョン・クインシー・アダムズは、それが純粋な偽善の顕現、あるいは「原則の柔軟性」であると主張した。ベイリンは、ジェファーソンの中の矛盾を表すものであり、「急進的ユートピアの理想家と、頭が固く、巧みでときには狡い政治家が同居する」者とした。しかしジェエンキンソンは、ジェファーソン自身の失敗が今日の思想家にジェファーソンの理想を無視するように仕向けたとすべきではないと論じた。 ヨーロッパの貴族で民主主義に反対するクーネルト・レディンは、ジェファーソンが民主主義者ではなく、実際にはエリート階級による統治を信じていたので、「ジェファーソン流民主主義」は誤った名付け方だと論じている。「ジェファーソンは現実に人格と知性のエリートによって統治される共和国を夢見た農本主義ロマンチストだった。」と語った。 歴史家のショーン・ウィレンツは、人民に奉仕するために選挙で選ばれた実務的政治家としてのジェファーソンは、自身の抽象的な立場に固執することなく、解決策について交渉する必要があったと論じている(2006年)。その結果は「未経験の出来事に対する柔軟な反応...通常の勤勉なアメリカ人大衆に機会を拡大することから、原則的な戦争回避まで幅のある理想を追求することだった」としている。 歴史家達はジェファーソンとハミルトンの間の対立を、アメリカ合衆国の政治、政治哲学、経済政策および将来の方向に関する象徴的なものとして捉えてきた。ウィレンツは2010年に、学者の支持がハミルトンに傾いていることを次のように指摘した。 近年、ハミルトンとその評判は学者の間で決定的な評価を得てきた。学者達はハミルトンが近代的自由資本経済のビジョンを形作った者であり、動的な連邦政府を精力的な実行力で舵取りした者と描いている。対照的にジェファーソンとその一党は、ナイーブで夢見る理想主義者として評価されるようになってきた。多くの歴史家が評価する中でも、ジェファーソン派はアメリカをヨーマンの理想郷に変えようとして、資本主義的近代化の奔流に抵抗した反動的理想主義者という評価が良い方である。最も悪い評価では、西部をインディアンから取り上げ、奴隷制度の帝国を拡大し、政治権力を地方の手に置いておこうと望んだ、奴隷制度擁護派の人種差別主義者であり、さらには、奴隷制度の拡張奴隷所有者の人間資産に対する権利を保護しただけだとしている。
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