ジェファーソンと1800年革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 05:29 UTC 版)
「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「ジェファーソンと1800年革命」の解説
マディソンは連邦議会の中で党派工作を熱心に進め、各州の同調的な政治会派との連衡を作り上げた。決定的選挙となった1800年アメリカ合衆国大統領選挙で、有権者を活気づけて、連邦党を権力の座から追い出し、ジェファーソンと民主共和党を選ばせた。ジョン・アダムズ大統領はその最後の数分間を使って、著名な連邦党員ジョン・マーシャルを合衆国最高裁判所長官に指名するという、いわゆる「真夜中の任命」を行った。その後マーシャルは長官を30年間保持し、その地位を利用して合衆国憲法を連邦主義に解釈していったので、ジェファーソンにとっては悩みの種になった。 ジェファーソンは大統領として、アダムズ政権の「真夜中の任命」の浄化に動いた。指名された判事42人のうちの25人の発令を保留し、軍隊の士官を排除した。国が互いにバランスを図る2つの競合する政党を必要としている感覚は、どちらの党からも十分に認められていなかった。ハミルトンはジェファーソンの当選を連邦党の実験の失敗だと捉えた。当時の言葉遣いでは地殻変動だった。反対党が選ばれることは、敵が国を滅ぼすことを意味していた。ジェファーソンの外交政策は全くのナポレオン寄りではなかったが、イギリスが習慣化していたアメリカ人水夫の強制徴募など敵対的行動をイギリスに止めさせる圧力にはなった。ジェファーソンとマディソンは1807年にイギリスに対する通商禁止法を発令することで、国を経済不況に陥らせ、連邦党支持のニューイングランド企業の多くを破滅させ、最終的にはさらに大きく強力な敵との戦争(米英戦争)に参戦することになった。 連邦党は活発に政府を批判し、工業化の進んだ北東部では力を保っていた。しかし、1814年に大きな誤りを犯した。この年、非公開の「ハートフォード会議」で連邦からの脱退に繋がる決議案を通していた。それが露見して連邦党を破滅させた。それが続く時代に災いし、ニューイングランドと東部の飛び飛びの州では強かったが、西部では実質的に全く力が無かった。連邦党は多くの選挙戦術を編み出していたが(1808年の初の全国的候補指名大会など)、その選良的偏見が中産階級との疎外を生み、ジェファーソン派に自派こそが「共和制」の真の精神を表すものと主張することを許した。
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