フォークシンガーとして
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1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコード・デビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石ともや、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」。 1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。 1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。
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フォークシンガーとして
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「佐藤博 (フォークシンガー)」の記事における「フォークシンガーとして」の解説
吉祥寺を中心に活動していたことから、吉祥寺派とも呼ばれるフォークシンガーと親交が深い。25年ぶりに作られたセカンドアルバムでは参加ミュージシャンとして佐久間順平・高田渡・シバ・中川イサト・松田幸一・竹田裕美子・今井忍・村上律・岡嶋BUN善文・ANNSAN・朝比奈尚行・青木ともこ・大庭珍太らが参加した。サードアルバムでは、参加ミュージシャン佐久間順平・松田幸一・千葉一樹 ライナーノーツ:中川五郎 ジャケット写真:シバ。
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