フォークの復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 22:21 UTC 版)
モンローの運勢は1960年代初頭"フォークの復活"の時期に上昇し始めた。多くの大学生や若者たちがモンローを発見し、彼の音楽スタイルを、伝統的なフォークというより、以前からそう見られていたように、カントリー・ウェスタンのジャンルと捉えた。"bluegrass:ブルーグラス"という言葉はこのころ、モンローやフラットとスクラッグス、the Stanley Brothers、en:Osborne Brothersなどのモンローに似たスタイルのアーティストを指すものとしてはじめてあらわれた。 フラットとスクラッグスはすぐに、儲けられる新たな聴衆を市街や大学キャンパスに見出していたが、モンローは出遅れた。しかしラルフ・リンズラー(en:Ralph Rinzler、1963年にモンローのマネージャーとなるNew Jersey出身の若いミュージシャン)の影響で、モンローの活動は徐々に、南の伝統的なカントリーミュージック圏を超えて広がっていった。また、リンズラーは長いプロフィールとインタビューを影響あるフォークの雑誌en:Sing Out!に、初めてモンローをブルーグラスの父として載せることに尽力した。また、初めてのブルーグラスフェスが、1965年バージニアで開かれ、モンローはその中心人物であった。 1960年代、モンローの音楽に全国的な人気が出てくると、徐々にミュージシャンが、彼のバンドに新たに加わっていくバックグラウンドとなっていった。 マサチューセッツ州出身のバンジョー、ビル・キース(Bill Keith)とボーカル・ギータリストのピター・ローワン(Peter Rowan)、ニューヨーク出身のフィドル、ジーン・ローウィンガー(Gene Lowinger)、メリーランド州出身のバンジョー、ラマー・グリアー(Lamar Grier)、カリフォルニア州のボーカル・ギターリスト、ローランド・ホワイト(Roland White)とフィドルのリチャード・グリーン(Richard Greene)ら、南部出身ではないミュージシャンがまさにそれである。
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