フォークの地位の向上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となる。多くの改革により、今日では「普通」となったミュージシャン像を作り上げた。 1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した。最初に就職したエレックレコードは、専属アーティストではなく社員契約で、レコードは何枚売れても関係なしの月給制の会社員だった。エレックは通信販売の会社だったため、自分のレコードを自分で梱包し宛名書きして郵送していた。ステレオなどの新商品の全国キャンペーンに帯同して、機械の前座として店頭で歌うこともあった。拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利(印税)がある事を知った。当時のアーティストでそうした著作権関係を知る者はおらず、会社から「お金のことを言うな」等と押さえ付けられていた時代。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す。 朝妻一郎は「加藤和彦さんで1番大きかったのが僕に吉田拓郎さんを紹介してくれたことです。『朝妻さん、吉田拓郎って絶対売れますよ』って教えてくれたり。加藤くんからのインプットがなかったら、僕も今みたいになってなかったことは確かです」などと述べている。 1976年2月15日からTBSの「サンデースペシャル」枠で、久世光彦企画による音楽番組「セブンスター・ショー」が、日曜日の19時30分〜21時というゴールデンタイムで、7週にわたって放送され、7人(組)のトップスターがスタジオでワンマンライブを披露した。第1週の沢田研二から、森進一、西城秀樹、布施明、かまやつひろし・荒井由実、五木ひろしという並びで、拓郎はシングルリリース直後の3月28日放送で"トリ"を務め、フォークが市民権を得たことを如実に現した。 マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった。「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した。 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している。 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である。
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