ザンベジ・リンポポ川水界
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「アフリカ史」の記事における「ザンベジ・リンポポ川水界」の解説
ザンベジ川、リンポポ川はそれぞれインド洋へ注ぐ南部アフリカを代表する大河で、この二つの大河に挟まれた肥沃な大地には古くから文明が栄え、15世紀にその栄華の頂点を極めたグレート・ジンバブエをはじめ、10世紀以降数多くの王国が勃興している。その理由としては高原地帯というアフリカ大陸で比較的過ごしやすい生活環境もさることながら、豊富な金の産出がその最大の要因であることは間違いない。外洋世界との比較的早い時期からの金の交易は外来文明の早期流入につながり、都市と国家の発展を促した。 いつごろからこの地で生活が営まれていたかは定かではないが、紀元前500年ごろより、この地においてもバントゥー語族の活動が見て取れる。このバントゥー語族の移動により、かつてこの地で生活していたとされる民族は定住地を追い出されたと見られ、洞窟などにみられるいくつかの岩壁画を残し、消えていった。その生活様式自体はカラハリ砂漠で生活をするブッシュマンに引き継がれていった。マクル遺跡の調査・研究により、700年ごろになると生活水準はかなり高くなっていたことが判明している。現代と変わらない丸い土壁に草を葺いた屋根を持つ家に住み、ヒツジ・ヤギ・ウシなどを牧畜し、ミレットを農耕し、さらに鉄鉱石の採掘場や土器の使用なども認められるほか、ダチョウの卵殻や銅で作った装飾品などを身につけていた。900年を越えるころになるとそれまでの遺跡にはみられない防衛を考慮した村づくりが見られるようになり、土器の装飾などがショナ人のそれに近づいていく。ただし、この変化がショナ人が到来したことを意味しているのか、本来の民族の進化を意味しているのかについて結論付けはいまだなされていない。ともあれ、沿岸部において900年以降、奥地において1200年以降はザンベジ・リンポポ川水界はショナ人の世界となった。 この地にはじめて国家として成立したとされるのは1150年ごろのマプングブエ王国とされている。10世紀ごろよりジンバブエ高原で生活していたショナ人が1075年ごろ、リンポポ川中流域のマプングブエの丘へ移り住んだ。金、銅、青銅を加工した装飾品、象牙細工や骨製道具などの奢侈品の製作を得意とし、やがて東海岸への金の輸出に対し影響力を行使するほどの発展を遂げた。9ヘクタールほどの都市を形成し、ジンバブエ高原南西部を領土として、いくつかの衛星都市も確認されている。さらに高原の南縁にはアフリカ最大の石造遺跡でジンバブエの国名ともなったグレート・ジンバブエがあり、マプングブエに酷似した生活形態を持った集団が生活していた。最盛期には人口1万8000人を抱えるこの国家の台頭は13世紀ごろ、マプングブエ王国の没落と同時期に起こっていることから、金の交易ルートを巡り、衝突があったと考えられている。グレート・ジンバブエは1500年ごろに滅んだとされるが、その原因はよくわかっていない。 グレート・ジンバブエ没落後の15世紀、高原の北東部にモノモタパ国、南西部にトルワ国、東部にマニカ国が興り、ポルトガルなどヨーロッパの文献にもその名が見られるようになる。トルワ王国は、1450年〜1700年ころにかけて多くの「石の家」(ジンバブェ)と呼ばれる街を築いた。そのうち最大のものが、ブラワヨ市の西方20kmに位置するカミであった。カミは、カミ川の西側東西500m南北1kmにひろがる広大な街であり、人口は約7000人に達したと考えられている。川沿いには、マンボの丘があって王とシャーマンが住んでいたと考えられる。ポルトガル産の青白磁模倣品の陶器、ドイツ産の塩釉がかけられた堅牢な焼き締め陶、明代後期の青白磁、北アフリカ産の水差しの口縁部分、イベリア半島産のレリーフの施された銀製品など交易によって繁栄していたことをうかがわせる遺物が出土している。17世紀中葉になると、トルワ王国は、東のダナンゴンベ(現ドーロ・ドーロ遺跡)に遷都したが、ダナンゴンベと同時期に建設されたナレタレ遺跡の石積みは美しく、チェッカー板のように黒く隙間を空けたり、山形文様、白い石と黒い石を交互に使ったり、横倒しのヘリンボーンないし杉綾文様など目をみはらせるものである[要出典]。 トルワ王国とポルトガルは金の交易を通して交流を深めていったが、やがて17世紀中盤になるとポルトガルの影響が次第に強くなり、王位継承権にすら介入するようになった。その混乱で、17世紀末に、高原北東部で発生したチャンガミレ一族の侵攻を受けてダナンゴンベが陥落し滅亡した。 また、モノモタパ国も同様、ポルトガルやイスラム商人などと金の交易を行っていたが、1560年、次第に影響力を強くしていくポルトガルに危機感を覚えた保守派がイエズス会宣教師ゴンザロ・ダ・シルベイラを暗殺するという事件が発生した。これを契機としてポルトガルとモノモタパ国の関係は急激に冷め、内紛の混乱で主権を失い、1629年、ポルトガルの庇護を受けることとなった。このポルトガル支配は1690年代まで継続した。マニカ国でも同様の事態が起こり、ポルトガルの支配下となった。 1680年代、新しくチャンガミレ一族という勢力が台頭し始める。もともとはムタパ国のウシ監督官であったチャンガミレは同志を率い、1684年、マニカ国のポルトガル人を攻め始め、翌年にはトルワ国を滅ぼし、チャンガミレ国を建国した。1690年代に入ると国王が代わり、主権奪回を狙うモノモタパ国と協力し、ポルトガル商人を領内から追放することに成功する。その後、平穏を取り戻したモノモタパ国とチャンガミレ国は警戒しつつもポルトガルとの交易を再開する。以降200年の長きにわたり、外来の脅威を排除することを可能にした。 18世紀以降はそれまでのような大きな国家の勃興はなかったが、小さな首長制をとる国家が無数に割拠する時代となった。19世紀末、イギリスがこの地にやってきた時には、高原に居住するショナ人は200を超える国を形成し、複雑な社会を形成していたという。この「戦国時代」の荒波に抗うことができなかったモノモタパ国はみるみると弱体し、19世紀末に消滅している。チャンガミレ国もングニ人やンデベレ人などの侵攻を食い止めることができず、分裂、統合を繰り返しながら小国家の中へと消えていった。
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