ザンベジ・リンポポ川水界とは? わかりやすく解説

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ザンベジ・リンポポ川水界

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)

アフリカ史」の記事における「ザンベジ・リンポポ川水界」の解説

ザンベジ川リンポポ川それぞれインド洋へ注ぐ南部アフリカ代表する大河で、この二つ大河挟まれ肥沃な大地には古くから文明栄え15世紀にその栄華頂点極めたグレート・ジンバブエをはじめ、10世紀以降数多く王国勃興している。その理由としては高原地帯というアフリカ大陸比較過ごしやすい生活環境さることながら豊富な金の産出がその最大要因であることは間違いない外洋世界との比較早い時期からの金の交易外来文明早期流入つながり都市国家発展促したいつごろからこの地で生活が営まれていたかは定かではないが、紀元前500年ごろより、この地においてもバントゥー語族活動見て取れる。このバントゥー語族移動により、かつてこの地で生活していたとされる民族定住地追い出されたと見られ洞窟などにみられるいくつかの岩壁画残し消えていった。その生活様式自体カラハリ砂漠で生活をするブッシュマン引き継がれていったマクル遺跡調査・研究により、700年ごろになる生活水準はかなり高くなっていたことが判明している。現代変わらない丸い土壁葺いた屋根を持つ家に住み、ヒツジ・ヤギ・ウシなどを牧畜し、ミレット農耕し、さらに鉄鉱石採掘場土器使用なども認められるほか、ダチョウ卵殻作った装飾品などを身につけていた。900年越えるころになるとそれまで遺跡にはみられない防衛考慮した村づくり見られるようになり、土器装飾などショナ人のそれに近づいていく。ただし、この変化ショナ人到来したことを意味しているのか、本来の民族進化意味しているのかについて結論付けはいまだなされていない。ともあれ沿岸部において900年以降奥地において1200年以降はザンベジ・リンポポ川水界はショナ人世界となった。 この地にはじめて国家として成立したとされるのは1150年ごろのマプングブエ王国とされている。10世紀ごろよりジンバブエ高原生活していたショナ人1075年ごろ、リンポポ川中流域マプングブエの丘へ移り住んだ。金、青銅加工した装飾品象牙細工や骨製道具などの奢侈品の製作を得意とし、やがて東海岸への金の輸出対し影響力行使するほどの発展遂げた。9ヘクタールほどの都市形成しジンバブエ高原南西部領土として、いくつかの衛星都市確認されている。さらに高原の南縁にはアフリカ最大石造遺跡ジンバブエ国名ともなったグレート・ジンバブエがあり、マプングブエ酷似し生活形態持った集団生活していた。最盛期には人口1万8000人を抱えるこの国家台頭13世紀ごろ、マプングブエ王国没落同時期に起こっていることから、金の交易ルート巡り衝突があったと考えられている。グレート・ジンバブエ1500年ごろに滅んだとされるが、その原因はよくわかっていない。 グレート・ジンバブエ没落後の15世紀高原北東部にモノモタパ国、南西部にトルワ国、東部にマニカ国が興りポルトガルなどヨーロッパ文献にもその名が見られるうになるトルワ王国は、1450年1700年ころにかけて多くの「石の家」(ジンバブェ)と呼ばれる街を築いたそのうち最大のものが、ブラワヨ市の西方20kmに位置するカミであったカミは、カミ川の西側東西500m南北1kmにひろがる広大な街であり、人口は約7000人に達した考えられている。川沿いには、マンボの丘があって王とシャーマン住んでいたと考えられるポルトガル産の青白磁模倣品陶器ドイツ産の塩釉かけられ堅牢な焼き締め陶、明代後期青白磁北アフリカ産の水差し口縁部分、イベリア半島産のレリーフ施され銀製品など交易によって繁栄していたことをうかがわせる遺物出土している。17世紀中葉になると、トルワ王国は、東のダナンゴンベ(現ドーロ・ドーロ遺跡)に遷都したが、ダナンゴンベと同時期に建設されたナレタレ遺跡石積み美しくチェッカー板のように黒く隙間空けたり山形文様、白い石と黒い石交互に使ったり、横倒しヘリンボーンないし杉綾文様など目をみはらせるものである[要出典]。 トルワ王国ポルトガルは金の交易通して交流深めていったが、やがて17世紀中盤になるとポルトガル影響次第強くなり、王位継承権にすら介入するようになった。その混乱で、17世紀末に、高原北東部発生したチャンガミレ一族侵攻受けてダナンゴンベが陥落し滅亡したまた、モノモタパ国も同様、ポルトガルイスラム商人などと金交易行っていたが、1560年次第影響力強くしていくポルトガル危機感覚えた保守派イエズス会宣教師ゴンザロ・ダ・シルベイラを暗殺するという事件が発生したこれを契機としてポルトガルとモノモタパ国の関係は急激に冷め内紛混乱主権失い1629年ポルトガル庇護を受けることとなった。このポルトガル支配1690年代まで継続した。マニカ国でも同様の事態起こりポルトガルの支配となった1680年代新しくチャンガミレ一族という勢力台頭し始める。もともとはムタパ国のウシ監督官であったチャンガミレは同志率い1684年、マニカ国のポルトガル人攻め始め翌年にはトルワ国を滅ぼし、チャンガミレ国を建国した。1690年代に入ると国王代わり主権奪回を狙うモノモタパ国と協力しポルトガル商人領内から追放することに成功するその後平穏取り戻したモノモタパ国とチャンガミレ国は警戒しつつもポルトガルとの交易再開する以降200年長きにわたり外来脅威排除することを可能にした。 18世紀以降それまでのような大きな国家勃興はなかったが、小さな首長制をとる国家無数に割拠する時代となった19世紀末イギリスがこの地にやってきた時には高原居住するショナ人200超える国を形成し複雑な社会形成していたという。この「戦国時代」の荒波抗うことができなかったモノモタパ国はみるみる弱体し、19世紀末消滅している。チャンガミレ国もングニ人やンデベレ人などの侵攻食い止めることができず、分裂統合繰り返しながら小国家の中へと消えていった。

※この「ザンベジ・リンポポ川水界」の解説は、「アフリカ史」の解説の一部です。
「ザンベジ・リンポポ川水界」を含む「アフリカ史」の記事については、「アフリカ史」の概要を参照ください。

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