インテグラル・ヴィジョン(ウィルバーⅣ)
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「ケン・ウィルバー」の記事における「インテグラル・ヴィジョン(ウィルバーⅣ)」の解説
1995年に出版された『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)において、ウィルバーは、自己の思想活動をその端緒より特徴づけていた「個人」と「集合」の領域を相互に有機的に関連するものとしてひとつの包括的な理論構想のなかに統合することに成功する。そして、この理論構想は、『進化の構造』の発表後、継続的な修正をくわえられながら、今日の"AQAL"("All Quadrants, All Levels"を省略したもの)と形容されるものへと展開している。このあたりの理論展開の詳細については『進化の構造』とKosmic Karma and Creativityを参照していただくとして、ここでは、これらの理論構想をその基盤において支えている発想(態度)について紹介する。 与那城務(2006)の論文においても指摘されているように、インテグラル思想は、「インテグラル」(統合)という大義のもと、多様な理論体系をその構成要素として包摂することを意図するものではない。むしろ、インテグラル思想とは、人間の意識というものが、ある視点(perspective)を抱擁することをとおして、必然的に盲点を抱えこむものであることの認識のもと、人間の認識行為の構造的な限定条件を建設的に活用することを意図するものである。つまり、それは、世界を認識する際、視点というものを利用せざるをえない人間の認識能力の特性を内省することをとおして、認識という経験が生成する背景としての意識という空間に立ちかえることを援助しようとするものなのである。こうした観想者の視野に継続的に立ちかえることをとおして、人間は、はじめて、自らの得意とする視点に執着することなく、様々な視点を柔軟に活用することができるようになるのである。 『意識のスペクトラム』は、こうした態度を基盤として、垂直的に存在する認識(存在)の階層をまとめたものである。そして、『進化の構造』以降の著作のなかで提唱されるAQALは、この意識(存在)の階層を、水平的に存在する認識(存在)の領域へと展開したものである。 水平的に存在する認識(存在)の領域として、ウィルバーは、"I"・"WE "・"IT"・"ITS"の4つをあげている。これらは、人間が生得的に所有する視点として普遍的に共有されているものであり、また、この世界のあらゆる事象を包括的に認識するうえで必要とされるものであるという。 "I"(Individual Interior):個の内面の領域。この視点は、個の主観的(subjective)な存在としての真実性を尊重するもので、そこでは、個は、自己の内的な意図にもとづいて行動する自律的な存在としてとらえられる。この領域の価値基準は、個人が、自己の内的な感覚をいかに正確に解釈・表現するかに注目する主観的な「誠実」(sincerity)というものである。 "WE "(Collective Interior):集合の内面の領域。この視点は、自律的な内面を所有する個人の相互理解と相互尊重を重視するもので、そこでは、集合(共同体)は、規範・倫理・価値等の文化を共有する個人による共感により維持されるものとしてとらえられる。この領域の価値基準は、集合(共同体)の構成員が、相互理解・相互尊重をとおして、いかにまとまりのある文化空間を構築するかに注目する「正義」(justness)である。 "IT"(Individual Exterior):個の外面の領域。この視点は、客観的に観察をすることのできる事象を重視するもので、そこでは、主観的な要素の影響することない、普遍的な事実が追求される。この領域の価値基準は、いかにあらゆる主観的な「歪曲」に影響されない「客観的」・「普遍的」な真実を抽出するかに注目する「真実」(truth)である。 "ITS"(Collective Exterior):集合(共同体)の外面の領域。この視点は、集合の組織体としての整合性を尊重するもので、そこでは、個は、あくまでも、集合の構成要素としてとらえられる。この領域の価値基準は、ある存在(個人・組織)が、それをとりまく外的な生存状況にいかに適合するかに注目する「機能的な適合」(functional fit)というものである。 上記の視野は、独自の価値基準にもとづいて事象を把握・検証する。つまり、それらは、独自の方法で事象を照明し、また、独自の方法で事象を隠蔽するのである。重要なことは、それぞれの視野の自律性を尊重したうえで、それらを相互の有機的な関係性のなかに位置づけることである。世界のあらゆる事象は、少なくともこれら4つの視野から認識することのできるものである。インテグラル・アプローチは、これらの視野が内在する光と陰を認識したうえで、それらを包括的に活用することの重要性を認識する。 ウィルバーの指摘するように、これらの視野の相補的な重要性を尊重することなく、どれかを絶対化すること("Quadrant Absolutism")は、深刻な悲劇をもたらすことになる。例えば、今日、現代社会は、内面性の価値を溶解しようとする文化的な潮流に席巻されている。これは、ウィルバーが「フラットランド」("Flatland")と呼ぶもので、近代科学の物質主義と現代思想の価値相対主義の融合により生みだされた、あらゆる価値基準の外面化・浅薄化の流れと形容することのできるものである。そこでは、人間を人間たらしめる内面性というものが妥当性をもつ価値領域として否定され、その代わりに、視覚や触覚等、肉体感覚により計測することのできる情報が信頼できる基盤として排他的に抱擁るれたのである。こうした状況において、人間の内面性を探求することをとおして人格の成熟を醸成することを意図する芸術等の営為の存在価値は、必然的に軽視されるようになる。こうした外面化・浅薄化の蔓延した社会においては、人間とは、あくまでも自己の肉体的衝動に忠実に行動する物質的存在にすぎず、その「治癒」は、肉体的衝動の充足をとおして可能となるものであるとされるのである。 しかし、発達心理学の調査が示唆するように、人間の成長(治癒)とは、内省力の深化をとおして、肉体的衝動を高度のレベルに昇華して、成熟した社会性のもとに表現する、自己中心性を克服する過程である。そこでは、成長(治癒)とは、自己を対象化して、複数の視点を考慮したうえで、表現することのできる意識構造を構築することをとおして達成されるものとして認識されるのである。そうした人間存在の垂直的な可能性を尊重する人間観は、今日の外面領域の絶対化を基盤とした人間観と真向から衝突するものである。結果として、こうした内面領域の否定は、とりわけ先進諸国において、意識の広範な地盤沈下をもたらしている。
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