それ以外の大陸横断鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「それ以外の大陸横断鉄道」の解説
セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道の組み合わせ以外にも、大陸横断鉄道は建設された。アメリカ国内で最北部のカナダとの国境に近い地帯を走るのは、ノーザン・パシフィック鉄道とグレート・ノーザン鉄道である。政府ももともと、中央ルート以外にも鉄道が必要であると考えていたため、リンカーン大統領の署名で1864年7月に北部ルートの鉄道建設を支援する法律が制定され、まずノーザン・パシフィック鉄道が発足することになった。これには当初鉄道債の発行権限が与えられていなかったが、政府の支援なしでは建設が進まないことが明らかとなったため後に鉄道債の発行が認められた。1870年にミネソタ州ダルースで東から西へ向けて起工され、また3年後にワシントン準州カラマで西から東へ向けても起工された。しかし1873年恐慌により会社は行き詰まり、フレデリック・ビリングスやヘンリー・ヴィラード(英語版)の働きにより1878年に再生して、1883年9月8日にモンタナ準州ゴールド・クリーク(英語版)で東西のレールがつながった。 グレート・ノーザン鉄道は、「エンパイア・ビルダー」(帝国建設者)として知られるジェームズ・ジェローム・ヒルによって建設が進められた鉄道で、1873年恐慌の機会にセントポール・アンド・パシフィック鉄道を買収したところから始まった。ロッキー山脈を越えるために、他の鉄道の通過する峠より標高の低いマリアス峠(英語版)を見つけ出すなどして西へ建設を進め、1890年にはグレート・ノーザン鉄道に改称して、1893年1月6日にワシントン州シーニック(英語版) で線路がつながった。ヒルは後にノーザン・パシフィック鉄道も傘下に収めた。またシカゴやデンバーへの路線を持つシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道と連絡して、南部の綿や中西部の小麦、東部の鉄鋼などを運び、日本郵船と提携してアジアへ輸出するルートを形成した。 セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道より南側を走る大陸横断鉄道であるアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は、弁護士のサイラス・ホリデイ(英語版)が1859年に議会を説得して特許を得てカンザス準州で設立した。やはり土地供与を受ける内容となっており、1873年3月1日までにコロラド準州との州境まで建設することが条件となっていた。しかし州境の標識は明確ではなく、3月1日を前に既に州境へ到達していたと考えていた建設現場に州知事の代理人から州境は4マイル先であることを指摘され、期限を守るために吹雪の中で4マイルをわずか数時間で完成させることになった。そのままコロラド準州へと延長を始め、この地方に鉄道を建設し始めていたデンバー・アンド・リオグランデ鉄道(後にデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道)との争いになった。互いに鉄道建設工事を妨害しあい、銃弾が飛び交い、訴訟が繰り返される激しい争いを乗り越えてさらに南西へ建設を進め、1881年にニューメキシコ準州デミングでサザン・パシフィック鉄道に接続したことで太平洋までの経路ができあがった。その後独自にサンディエゴからの線路を建設して1885年11月に自社線だけで太平洋へ行けるようになった。さらにカンザス州から北東への線路建設も始め、1888年4月にはシカゴからサンディエゴまでの大陸横断ルートを自社線のみで運行できるようになった。一方アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道と争っていたデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、ウェスタン・パシフィック鉄道(英語版)とソルトレイクシティで、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道とデンバーで接続しており、あわせるとやはり大陸横断鉄道を形成していた。 もっとも南側で大陸横断鉄道を形成したのがサザン・パシフィック鉄道である。セントラル・パシフィック鉄道を創設したビッグ・フォーが、カリフォルニアにおける小鉄道であったサザン・パシフィック鉄道を買収して建設を進めたもので、1885年にはセントラル・パシフィック鉄道も吸収してサザン・パシフィック鉄道の名で営業するようになった。サザン・パシフィック鉄道は、太平洋岸を南北に建設を進め、北はシアトルへ、南はテハチャピ峠をテハチャピループ線で越えてサンディエゴまでを建設した。さらにそこから東へ建設を進め、大陸横断鉄道を目指した。もともと南部ルートでの大陸横断鉄道は、ペンシルバニア鉄道出身のトマス・スコットが贈賄工作により、その傘下のテキサス・アンド・パシフィック鉄道(英語版)が建設することを認められていた。サザン・パシフィック鉄道はこの経緯を無視して勝手にアリゾナ準州内を東へ建設していった。このため、サザン・パシフィック鉄道は土地供与によらずに建設された大陸横断鉄道であり、また西から東へ建設を進めたことも特徴である。地元の住民は鉄道を待望していたためサザン・パシフィック鉄道を大歓迎し、住民からの嘆願書が殺到するなどしたことから、政府もしぶしぶその建設を認めざるを得なくなった。ニューオーリンズまで建設して大陸横断鉄道が完成したのは1883年のことであった。 アメリカ合衆国で最後に完成した大陸横断鉄道は、ミルウォーキー鉄道であった。シカゴやカンザスシティなどを結ぶ鉄道を運営していたが、その輸送の目的地をグレート・ノーザン鉄道に依存していた状況を打開するために、1905年に太平洋岸へ至る路線の建設を決断し、1909年5月に1,400マイルに及ぶ路線を完成させた。 大陸横断鉄道の開通により、線路の沿線には入植する人が増加し、これらの地域の人口増加に貢献した。鉄道の建設に携わった労働者が、鉄道会社が売り出した土地を購入して定住する例もあった。大陸横断鉄道により初めてアメリカは1つの国家となり、国民性が形成されたとされる。大陸横断鉄道の建設に際して鉄道会社が政府から受け取った莫大な支援を問題視する意見もあり、実際に供与された土地は1億5500万エーカー(約62万7000平方キロメートル、日本の国土面積の約1.6倍)に上るとされる。また建設資金の融資も総額6450万ドルになったが、1890年代から満期を迎えるにつれて償還を受けた総額は1億6500万ドルになった。さらに契約により、政府の人員・貨物の輸送は通常の半額の運賃にすることになっており、1945年にこの契約が終了するまでに政府の得た運賃節約は総額9億ドルになり、これはもともと政府が払い下げた土地の価格の10倍にもなった。鉄道がなければほとんど使い物にならなかったであろう土地が豊富な天然資源と農産物の供給源になったことも考え合わせれば、鉄道は政府の支援の何倍もの貢献を国家に対して成したといえる。 しかし、鉄道会社が横暴であるという苦情も絶えなかった。鉄道会社への土地供与が決定すると、その周辺の土地ではホームステッド法に基づく農民への土地供与が一時的に停止された。鉄道会社は土地にかかる税金を払うのを避けるために、路線が決定しても供与された土地の登記を故意に先延ばしにし、そのために農民への土地供与の停止期間が長引いて、本来その周辺に開拓のために住み着こうとしていた農民を妨害することになった。また各種の土地供与に関する法律には相互に矛盾もあり、政府の政策も一定しなかったため、異なる根拠に基づく土地供与の権利を主張する鉄道会社や農民の間には紛争が生じた。こうしたことから鉄道会社への反感が高まり、1850年に始まった鉄道への土地供与政策は、1871年に新規供与が打ち切られることになった。 また世界的に見れば、大陸横断鉄道はアメリカ合衆国にとって、アジアへ通じる道という側面を持っていた。太平洋岸までの鉄道と、そこからの蒸気船により、東海岸の諸都市とアジアはそれまでとは比べ物にならないほど短時間で結び付けられて、貿易と交流が促進された。これは、イギリスの支配下にあったヨーロッパから東回りのアジア航路に頼らずに、独自にアジアに到達できる航路を模索したアメリカ合衆国の政策を反映している。さらにアメリカ大陸における大陸横断鉄道の完成は、太平洋や大西洋を横断する定期蒸気船航路の就航やスエズ運河の完成と合わせて、一般人でも利用できる定期交通機関による世界一周交通路の完成を意味していた。この時代、フランスの作家ジュール・ヴェルヌの書いた八十日間世界一周はまさにそうした状況を背景にしたものであり、完成したばかりの大陸横断鉄道が作品中に登場する。大陸横断鉄道の開通は、グローバリゼーションの始まりをも意味していた。
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