1864 年とは? わかりやすく解説

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元治元年 (きのえね 甲子)

元治元年
年(年号)
1853年 (嘉永6年) 黒船来航
1855年 (安政2年) 安政江戸地震
1858年 (安政5年) 安政の大獄
1860年 (万延元年) 桜田門外の変
1862年 (文久2年) 生麦事件
1863年 (文久3年) 薩英戦争
元治元年
1867年 (慶応3年) 大政奉還
1868年 (明治元年) 鳥羽・伏見の戦い
1869年 (明治2年) 版籍奉還
1871年 (明治4年) 廃藩置県
1871年 (明治4年) 解放令
1873年 (明治6年) 徴兵制布告
1876年 (明治9年) 廃刀令
1877年 (明治10年) 西南戦争
1877年 (明治10年) 東京大学設立
1882年 (明治15年) 上野動物園開園
1883年 (明治16年) 鹿鳴館完成


元治元年
Siebold Philipp Von 1796年1866年(寛政8年慶応2年) 68
高島 秋帆 1798年1866年(寛政10年慶応2年) 66
男谷 精一郎 1798年〜1864年(寛政10年〜元治元年) 66
Harris Townsend 1804年1878年(文化元年明治11年) 60
Hepburn J. 1815年1911年(文化12年明治44年) 49
河竹 黙阿弥 1816年1893年(文化13年明治26年) 48
安藤 信正 1819年1871年(文政2年明治4年) 45
勝 海舟 1823年1899年(文政6年明治32年) 41
Boissonade G. E. 1825年1910年(文政8年明治43年) 39
梅若  実 1828年1909年(文政11年明治42年) 36
松平 春嶽 1828年1890年(文政11年明治23年) 36
高橋 由一 1828年1894年(文政11年明治27年) 36
仮名垣 魯文 1829年1894年(文政12年明治27年) 35
中村 正直 1832年1891年(天保3年明治24年) 32
近藤 勇 1834年1868年(天保5年明治元年) 30
Roesler K. 1834年1894年(天保5年明治27年) 30
橋本 雅邦 1835年1908年(天保6年明治41年) 29
土方 歳三 1835年1869年(天保6年明治2年) 29
榎本 武揚 1836年1908年(天保7年明治41年) 28
徳川(一橋) 慶喜 1837年1913年(天保8年大正2年) 27
Morse E. S. 1838年1925年(天保9年大正14年) 26
三遊亭 円朝(初代) 1839年1900年(天保10年明治33年) 25
渋沢 栄一 1840年1931年(天保11年昭和6年) 24
Morel E. 1841年1871年(天保12年明治4年) 23
沼間 守一 1843年1890年(天保14年明治23年) 21
Griffis William Eliot 1843年1928年(天保14年昭和3年) 21
尾上 菊五郎(五世) 1844年1903年(弘化元年明治36年) 20才
沖田 総司 1844年1868年(弘化元年明治元年) 20才
徳川 家茂 1846年1866年(弘化3年慶応2年) 18
Balz E. 1849年1913年(嘉永2年大正2年) 15才
星 亨 1850年1901年(嘉永3年明治34年) 14才
小泉 八雲 1850年1904年(嘉永3年明治37年) 14才
Conder J. J. 1852年1920年(嘉永5年大正9年) 12
Eckeert Franz Von 1852年1916年(嘉永5年大正5年) 12
島田 三郎 1852年1923年(嘉永5年大正12年) 12
高村 光雲 1852年1934年(嘉永5年昭和9年) 12
明治天皇 1852年1912年(嘉永5年大正元年) 12
Fenollosa E. F. 1853年1908年(嘉永6年明治41年) 11
高橋 是清 1854年1936年(安政元年昭和11年) 10
田口 卯吉 1855年1905年(安政2年明治38年) 9才
浅井 忠 1856年1907年(安政3年明治40年) 8才
高木 正年 1856年1934年(安政3年昭和9年) 8才
快楽亭 ブラック 1858年1923年(安政5年大正12年) 6才
田中 長兵衛 1858年1924年(安政5年大正13年) 6才
妻木 頼黄 1859年1916年(安政6年大正5年) 5才
Bigot G. 1860年1927年(万延元年昭和2年) 4才
内村 鑑三 1861年1930年(文久元年昭和5年) 3才
二葉亭 四迷 1864年〜1909年(元治元年〜明治42年) 0才
津田 梅子 1864年〜1929年(元治元年〜昭和4年) 0才
中浜 (ジョン)万次郎 ????年〜1898年(??年〜明治31年) ?才

1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 12:05 UTC 版)

1864年(1864 ねん)は、西暦グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年


  1. ^ 八杉佳穂 『マヤ文字を解く』〈中公文庫〉中央公論新社、2003年、36頁。 


「1864年」の続きの解説一覧

1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/16 15:52 UTC 版)

ジョン・モスビー」の記事における「1864年」の解説

モスビー隊が北軍供給線を妨害し輜重隊消耗させたことで、北軍グラント将軍シェリダンに「モスビー隊の誰か捕まえたときは、裁判無し処刑しろ」と伝えた。1864年9月22日北軍ジョージ・アームストロング・カスター准将指揮し、その知識行動しているとモスビー信じた(必ずしも正しくは無い)北軍部隊バージニア州フロントロイヤルでモスビー隊の6名を処刑した。7人目がそれに続く機会処刑された。ウィリアム・トマス・オーバービーはフロントロイヤルの丘での処刑選ばれた者達の1人だった。オーバービーを捕まえた者は、モスビー所在暴露すれば許してやると提案したが、オーバービーは拒絶した当時報告書拠れば、オーバービーの最期の言葉は「モスビーは我々1人につき、お前達10名を絞首刑にするだろう」だった。オーバービーの死後、ある北軍兵が「これがモスビーギャング全ての運命だ」と書いた1枚の紙をオーバービーのシャツピン留めした。 モスビーリー将軍アメリカ連合国陸軍長官ジェームズ・セドンに同じやり方反応するつもりであることを伝え多く居た中でも7人の北軍捕虜選び、1864年11月6日バージニア州レクタータウンで報復処刑命じた命令実効任され兵士達は3名を絞首刑にし、2名は頭を撃って死ぬままに放置された(驚くべき事にこの2人生き残った)。他の刑を宣告され2人は、おそらく刑執行者援助逃亡できた。 11月11日モスビーシェナンドー渓谷北軍指揮官であるシェリダン手紙書いて両軍捕虜人道主義取り扱うことを提案したモスビーはその部隊失ったよりも遙かに多くシェリダン部下捕獲した(そして解放した)と指摘した北軍側はこれに従った両軍当分の間捕虜を「戦争捕虜」として取り扱うようになり、それ以上処刑無かった

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1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:56 UTC 版)

第5軍団 (北軍)」の記事における「1864年」の解説

1864年4月ユリシーズ・グラント中将が、北軍総司令官となった北軍全体再編が行われ、第5軍団再編された。第2師団第1師団統合されグリフィン師団長となったクロウフォード第3師団そのまま残った第1軍団解散となり、その師団第5軍団第2師団及び第4師団として組み込まれた。それぞれの師団長ジョン・ロビンソンJohn C. Robinson及び ジェイムズ・ワズワースであったガバヌーア・ウォーレン第5軍団となった5月7日荒野の戦い前に軍団人員25,000人を数えたが、5月8日-21日スポットシルバニア・コートハウスの戦いの後には10,000人以上が負傷していた。第4師団長のワズワース荒野の戦い戦死し第2師団長のロビンソンはスポットシルバニアで脚を失うという重症負った第2師団兵員一時的に第5軍団の他の師団所属となった第4師団長にはアイアン旅団旅団長であったライサンダー・カトラー(Lysander Cutler)が就任した5月31日-6月12日コールドハーバーの戦い6月15日から翌年3月25日まで続いたピーターズバーグ包囲戦では、第5軍団激し戦闘経験した8月19日グローブタバンの戦いでは、多く捕虜出している。これらの戦いの後で、カトラー師団解散となった残りの3個師団は、グリフィンアイラス、及びクロウフォード指揮をとり、この3人は戦争終結まで師団長務めたグリフィン師団は旧第5軍団生き残りと、新たに組織され部隊含んでいた。アイラス師団新設連隊中心で、メリーランド旅団の様な古参部隊がこれを補強した正規軍師団ペンシルベニア師団)はその損害のために解散となり、クロウフォード師団は旧第1軍団兵士から構成されていた。これら師団9月30日のピーブル農園戦いにも参加した

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1864年(26歳)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:31 UTC 版)

フランツ・ブレンターノ」の記事における「1864年(26歳)」の解説

ブレンターノカトリック教会司祭となる。

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1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/26 09:49 UTC 版)

シェナンドー軍 (北軍)」の記事における「1864年」の解説

1864年8月7日北軍総司令官となったユリシーズ・グラント命令により、シェナンドー軍は再び組織された。南軍ジュバル・アーリー中将率い15,000名の軍団ワシントン侵攻、特にモノカシーの戦いルー・ウォーレス中将第8軍団が敗れたことに対処するためのものであった新しシェナンドー軍は、第6軍団(ホレイショ・ライト)、第19軍団(ウィリアム・エモリー(William H. Emory))及びジョージ・クルック西バージニア軍以前第8軍団の部隊受け継いでいたため、第8軍とされる場合もあるが、実際には別組織)で構成され軍司令官シェリダンであった。その使命アーリー対す逆襲と、南軍ゲリラシェナンドー峡谷追い返すことであったアーリー狡猾な戦略家であり、自身軍団が数に勝るシェナンドー軍捕捉されないよう機動させた。作戦初期におけるアーリー勝利は、アメリカ連合国士気回復させていた。南軍ロバート・E・リー大将は、アーリー軍団実現可能なことは全て成し遂げた結論し軍団の内2個師団リッチモンド戻し残り兵力シェリダン対するよう命じた。このことを知ったシェリダンは、アーリー戦力低下するのを待ち9月19日第三次ウィンチェスター戦い続いて9月20-21日のフィッシャーヒルの戦いでアーリー破った。これらの戦いでアーリー軍団壊滅的な損害被ったシェリダン南軍への食料補給遮断するためにシェナンドー渓谷焦土作戦実施し農家および2,000上の製粉所が燃やされた。 シェリダン31,000名のシェナンドー軍脅威対し戦力補給受けたアーリー再度逆襲試みた10月9日のトムズブルックの戦いでジョージ・アームストロング・カスター准将北軍騎兵隊決定的勝利を収めた後、アーリー10月19日にシーダークリークで奇襲をかけた。前半南軍優勢だったが、北軍逆襲成功して南軍敗北しシェナンドー渓谷北軍勢力範囲となった。 この勝利の後、シェナンドー軍構成部隊一部は、グラントピータースバーグ包囲戦ジョージアウィリアム・シャーマン支援派遣された。シェリダン自身グラント部下となったシェナンドー軍司令官にはアルフレッド・トルバート(Alfred Thomas Archimedes Torbert)准将就任し1865年6月27日解散した

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「1864年」を含む「シェナンドー軍 (北軍)」の記事については、「シェナンドー軍 (北軍)」の概要を参照ください。


1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:55 UTC 版)

グラディアトゥール」の記事における「1864年」の解説

グラディアトゥールは1864年10月11日、イギリスニューマーケット競馬場行われたクリアウェルステークスでデビューし勝利を収めたその後2戦してそれぞれ3着と着外敗れこの年シーズン終えた。このシーズングラディアトゥールハ行発症しており、3戦目はその上ひどい咳の症状起こしていた。

※この「1864年」の解説は、「グラディアトゥール」の解説の一部です。
「1864年」を含む「グラディアトゥール」の記事については、「グラディアトゥール」の概要を参照ください。


1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:53 UTC 版)

バージニア憲法」の記事における「1864年」の解説

1861年南北戦争に続く出来事の中で、バージニア州合衆国からの脱退決議した時に、州西部の全郡と北部幾つかの郡が不満を表明しフランシス・H・ピアポント知事として別の政府造り上げた南北戦争最中の1864年に、ウエストバージニア州の分離新し憲法創出承認したのはこの別の議会であったかくしてこの憲法分裂した州と政府産物となり、また1776年初代憲法以来初め住民投票無し採択されたものとなった。 1864年憲法では、バージニア州における奴隷制廃止しアメリカ連合国政府協力した議員権利剥奪しバージニア議会議員定数任期調整した現行のバージニア州憲法序文には、その前身リスト中に1864年憲法含めておらず、1864年憲法戦時下という条件起草され、法的意味合い不確定であるという注釈がある。

※この「1864年」の解説は、「バージニア憲法」の解説の一部です。
「1864年」を含む「バージニア憲法」の記事については、「バージニア憲法」の概要を参照ください。


1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:10 UTC 版)

1860年代」の記事における「1864年」の解説

詳細は「1864年」を参照 1月16日-10月30日 - ドイツ統一戦争第二次デンマーク戦争、プロイセン・デンマーク間)。 3月27日元治元年3月27日)- 元号文久から元治改元4月10日 -フランス主導マクシミリアン (メキシコ皇帝)即位し メキシコ第二帝政始まる。 5月4日元治元年3月29日) - 高杉晋作が、萩藩野山獄投獄される5月勝海舟神戸海軍操練所設立7月8日元治元年6月5日) - 池田屋事件7月19日 - 太平天国の乱終結8月5日 - 英仏米の連合艦隊馬関砲撃し下関戦争始まる。 8月20日元治元年7月19日) - 禁門の変9月アメリカ北軍アトランタ陥落させる

※この「1864年」の解説は、「1860年代」の解説の一部です。
「1864年」を含む「1860年代」の記事については、「1860年代」の概要を参照ください。


1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)

サロン・ド・パリ」の記事における「1864年」の解説

サロンは、1864年から、再び毎年開催となったこの年サロンは、それ以前サロン受賞者レジオンドヌール勲章受章者審査委員の4分の3を選挙し美術行政残り4分の1任命する方式改められアカデミー権限後退強いられた。それでも、審査委員選出アカデミー会員影響大きかったため、審査それほど緩和されず、再度落選展開催求める声も上がったまた、この年サロンから、審査部門が、絵画素描彫刻建築版画4部門に分けられた。 ミレーの『羊飼い少女』が1等賞をとり、政府買上げ申出がされるなど、ミレー対す評価高まったコロー晩期代表作『モルトフォンテーヌの思い出』を出品し政府買上げとなったこの年ギュスターヴ・モローは『オイディプスとスフィンクス』で画壇復帰果たした作品高い評価を受けナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルトによって購入された。一方ピエール=オーギュスト・ルノワールが『踊るエスメラルダ』で入選果たしている。ベルト・モリゾも、コロー影響受けたオーヴェルの古い道』で初入選したジャン=フランソワ・ミレー羊飼い少女1863年頃。油彩キャンバス81 × 101 cmオルセー美術館ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『モルトフォンテーヌの思い出』1864年頃。油彩キャンバス65 × 89 cmルーヴル美術館アンリ・ファンタン=ラトゥールドラクロワ礼賛』1864年。油彩キャンバス、160 × 250 cmオルセー美術館ギュスターヴ・モローオイディプスとスフィンクス』1864年。油彩キャンバス206×105cm。メトロポリタン美術館エドゥアール・マネ死せるキリスト天使たち』1864年。油彩キャンバス、179.4 × 149.9 cmメトロポリタン美術館ベルト・モリゾオーヴェルの古い道』1863年油彩キャンバス31 × 45 cm私蔵

※この「1864年」の解説は、「サロン・ド・パリ」の解説の一部です。
「1864年」を含む「サロン・ド・パリ」の記事については、「サロン・ド・パリ」の概要を参照ください。


1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 23:05 UTC 版)

1860年代の航空」の記事における「1864年」の解説

1864年 - ブラジルパラグアイの間で戦争勃発しブラジル軍軍用気球使用する

※この「1864年」の解説は、「1860年代の航空」の解説の一部です。
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1864年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:58 UTC 版)

第6軍団 (北軍)」の記事における「1864年」の解説

1864年3月それまで西部戦線指揮を執っていたユリシーズ・グラント中将に昇進北軍総司令官になると、ポトマック軍組織改変され第6軍団も影響受けた既存第3師団解散となり、所属旅団第1師団ホレイショ・ライト)と第2師団ジョージ・ゲティ)に配属された。また第3軍団解散となったために、その第3師団第6軍第3師団として加わった師団長ジェイムズ・リケッツであった軍団歩兵49連隊、8個砲兵中隊からなる砲兵旅団野砲48門)、および1個重砲大隊実際に歩兵として従軍)から構成され実働24,163人の人員有していた。 オーバーランド方面作戦における荒野の戦い5月5日-7日)とスポットシルバニア・コートハウスの戦い5月8日-21日)で、第6軍団はそれまで経験したとがない激し戦闘行った荒野の戦いでは、第2師団バーモント旅団は2,800人中1,232人を失った。スポットシルバニアでは第1師団の第15ニュージャージー旅団は、1日損害としては最大死傷率を記録した軍団長セジウィック狙撃兵銃弾5月9日戦死したが、セジウィック兵士から「アンクル・ジョン」と慕われており、その戦死軍団士気大きな影響与えたライト軍団長昇進しデイヴィッド・ラッセルDavid Allen Russell准将第1師団となった5月10日エモリー・アプトン大佐第6軍全体から選ばれ12連隊率いて南軍の「ミュールシュー」と呼ばれた突出部に銃剣突撃をかけ、白兵戦行った5月12日、「ブラディ・アングル」で第6軍全体戦ったが、このときの損失は、南北戦争中の最大損害記録に近いものであった荒野の戦いでの損害は5,035人(戦死719人、負傷3.660人、行方不明656人)、スポットシルバニアでの損害は4.042人(戦死688人、負傷2,820人、行方不明534人)であった6月1日コールドハーバーの戦いでは、再び死傷者2,715人の損害出したその後ピータースバーグ包囲戦参加したが、南軍ジュバル・アーリー少将メリーランド侵攻したため、その対応のためシェナンドー渓谷移動することとなった1864年のバレー方面作戦)。7月6日、リケットの第3師団はシティ・ポイントで乗船し8日にはバルチモア到着アーリー追跡開始した翌日モノカシーの戦いではルー・ウォーレス(後のベン・ハー作者)に合流しアーリー打ち破ることはできなかったものの、ワシントン侵攻遅延には成功し戦略的勝利を収めた残り2個師団7月10日乗船しワシントン上陸、市の郊外とも言えるスティーブンス砦でアーリー攻撃し、これに勝利した。この戦い矛先第2師団のダニエル・ビドウェル(Daniel D. Bidwell)の旅団向かい、その連隊長一人除き全員戦死あるいは負傷したその後軍団アーリー追ってメリーランド通過してバージニア入ったフィリップ・シェリダン少将の下にシェナンドー軍組織されると、第6軍団はその傘下となった。他に第8軍団、第19軍団がこれに加わったシェナンドー渓谷での戦闘では、オペクォンの戦い、フィッシャーヒルの戦いシーダークリークの戦いでの勝利により、長く記憶されることとなったシェリダン勝利により、アーリー敗北から2度回復することはなかった。ゲティ第2師団は、シーダークリークの戦いで他の部隊到着するまで、南軍の攻撃長時間持ちこたえた第1師団長のラッセルはオペクォンで戦死、ビドウェルはシーダークリークで戦死第3師団長のリケットも重症負った。オペクォンでの損害は1,699人(戦死211人、負傷1,422人、行方不明46人)、シーダークリークでの損害は2,126人(戦死298人、損害1,628人、行方不明200人)であった8月22日から10月20日までのシェナンドー方面作戦での損害は、実働12,615人に対して合計4,899であったラッセルの後を受けてウィートン第1師団長となり、トルーマン・サイモア(Truman Seymour准将がリケットに替わって第3師団となった

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「1864年」を含む「第6軍団 (北軍)」の記事については、「第6軍団 (北軍)」の概要を参照ください。

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