シェナンドー・バレー
シェナンドー渓谷
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「ジョージ・クルック」の記事における「シェナンドー渓谷」の解説
その年の8月、クルックはウェストバージニア方面軍を指揮し、その部隊はフィリップ・シェリダン少将のシェナンドー軍に属した。クルックは1864年のバレー方面作戦にその軍団を率い、オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)、フィッシャーズヒルの戦いおよびシーダークリークの戦いに参戦した。10月21日、クルックは志願兵の少将に昇進した。 1865年2月、クルック将軍はメリーランド州カンバーランドで南軍の襲撃隊に捕まり、1ヵ月後の捕虜交換までリッチモンドで戦争捕虜になっていた。その後アポマトックス方面作戦ではポトマック軍の1個騎兵師団を指揮した。
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シェナンドー渓谷
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「第12軍団 (北軍)」の記事における「シェナンドー渓谷」の解説
南軍ストーンウォール・ジャクソンのバレー方面作戦に対して、軍団(当時の名称はポトマック軍第5軍団)は激しい戦闘を経験した。シールズの師団は第一次カーンズタウンの戦い(1862年3月23日)でジャクソンに勝利を収め、またウィリアムズの師団は5月25日の第一次ウィンチェスターの戦いにおいて、数に上回る敵に善戦したものの、バンクスは軍団を撤退させた。8月9日のシーダー山の戦いでは、ほぼ第12軍団(このときの名称はバージニア軍第2軍団)のみで戦い、数で上回る南軍に敗北はしたものの、南北戦争の歴史に残る戦いぶりをみせている。師団長はウィリアムズとクリストファー・オウガー(Christopher C. Augur)であり、戦闘に参加した6,000人に対して、戦死302人、戦傷1,302人、行方不明594人の合計2,216人の損害を出した。中でもサミュエル・クロウフォードの旅団は、1679人中867人という大損害を受けた。 第二次ブルランの戦い(8月28日 - 8月30日)では、軍団は予備に回った。
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シェナンドー渓谷 (1864年-1865年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「シェナンドー渓谷 (1864年-1865年)」の解説
詳細は「1864年のバレー方面作戦」を参照 シェナンドー渓谷は南軍にとって重要な地域であった。バージニアでも最も農業の盛んな地域であり、北部への重要な侵攻路であった。グラントは、フランツ・シーゲルに任せた西バージニア軍がこの渓谷を支配すれば、10,000名の部隊で渓谷を遡り(南西の高度が高くなる方向)リンチバーグにある鉄道の中心地を破壊できると期待していた。シーゲルはたちまちニューマーケットの戦いで敗北を喫し、すぐにデイビッド・ハンターと交代させられたが、ハンターもまた任務遂行に失敗した。 リーはピーターズバーグで包囲されており、ハンターの進軍を心配してアーリーの軍団を送り、バレーから北軍を一掃した後で、可能ならばワシントンを襲いたいと考えた。そうすればグラントがピーターズバーグに集めている軍隊を割かねばならなくなることも期待していた。アーリー軍は出立して緒戦は成功だった。バレーを抵抗も無く通過しハーパーズ・フェリーを迂回してポトマック川を渡り、メリーランド州に入った。グラントはホレイショ・ライト指揮下の軍団とジョージ・クルークの部隊を派遣してワシントンを補強しアーリー軍を追わせた。 7月9日、フレデリックの近くのモノカシーの戦いで、アーリーはルー・ウォーレスの小さな部隊を破ったが、このために進軍が遅れ、北軍がワシントンの防御を固める時間を与えてしまった。7月11日から12日にかけて、アーリーはワシントン北西の防衛拠点スティーブンス砦に攻撃を掛けたが(スティーブンス砦の戦い)、うまく行かずにバージニアに撤退した。8月の始めに幾つかの小さな戦闘をバレーで行って勝利し、ライトの軍団がピーターズバーグの応援に向かうことを阻止していた。またペンシルベニア州チェンバーズバーグの町を焼き払った。 グラントは、アーリーがまだ野放しであれば、ワシントンが危ないままであることが分かっていた。グラントはアーリーを撃つことができる攻撃的な新しい指揮官を見出した。ポトマック軍の騎兵隊指揮官であるフィリップ・シェリダンにその地域の全軍指揮の権限を与え、その軍をシェナンドー軍と呼ばせた。この頃、大統領選挙が迫っており、リンカーンを負けさせてはならないために、敗北を慎重に避ける必要があったので、シェリダンは緩りと行軍を開始した。 シェリダンは9月に入って行動的になった。オペクォンの戦いとフィッシャーズヒルの戦いで続けてアーリー軍を破った。アーリー軍が損失を蒙り貼り付けになったことで、バレーは北軍が支配した。シャーマンがアトランタを占領したことで、リンカーンの再選は確実に思われた。シェリダンはバレーから緩りと軍隊を引き、11月のシャーマンによる海への進軍の前兆となる焦土作戦を展開した。その目的は南軍がバージニアから食糧を調達する手段を奪うことであり、シェリダン軍は穀物、納屋、製粉所および工場まで焼き払った。 この作戦は10月19日のシーダークリークの戦いで効果を挙げて終わった。アーリー軍は輝かしい急襲を掛けて、北軍の3分の2を敗走させたが、その軍隊は飢えており疲れ切っていたので、部隊から抜け出して北軍の宿営地を襲うようになった。シェリダンは軍隊を再集結させるとアーリー軍を決定的に叩き潰した。シェリダンはグラントを応援するためにピーターズバーグに戻った。アーリー軍の兵士の大半も12月にはピーターズバーグのリーの下に加わったが、アーリーは形骸化した軍の指揮官に留まり、1865年3月に任務を解かれた。
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