落選展
落選展
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350年以上の歴史を誇るル・サロン(官展)に対する批判は、すでに1863年に5000点の応募に対して3000点を落選としたことに対する抗議として、サロン落選者のための落選展が開催されたことで顕在化されたが(その後1864年、1873年、1875年、1886年に開催)、落選展の前史は1846年に遡る。同年のル・サロン展でギュスターヴ・クールベの自画像《パイプをくわえた男》を含む複数の作品が落選したために、象徴派の詩人シャルル・ボードレールや写実主義の理論家シャンフルーリ(フランス語版)がこれに抗議した。彼らの支持を得たクールベは、1855年のパリ万国博覧会で(一部の作品は展示されたものの)再び《画家のアトリエ》などの作品が出品を拒否されると、これに抗議して、パレ・デ・ボサール(芸術宮)の隣に木造の小屋を建てて「写実主義館(Pavillon du réalisme)」と名付け、ここに自作を展示して、作品だけでなく「審査員の能力」をも来館者に評価させた。1859年には同じく写実主義の画家フランソワ・ボンヴァンがル・サロンの審査に抗議するために、自宅でアンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロ、オーギュスタン・テオデュール・リボーらの作品を展示した。1861年に画家・詩人のテオドール・ヴェロン(Théodore Veron) がナポレオン3世に「落選者の嘆願書」を送り、落選展を開催する許可を得ることになった。
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落選展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)
1863年のサロンの審査が余りに厳しかったことから、審査委員会に対して芸術家たちの非難の声が高まった。これを受けて、ナポレオン3世は、サロンとは別に、落選作のみを展示する落選展の開催を決定した。この年の落選展には、少なくとも687点が展示されたが、中でもエドゥアール・マネの『草上の昼食』が大スキャンダルを巻き起こした。ホイッスラーの『白のシンフォニー』も激しい批判を浴びた。 『草上の昼食』(当初の題は『水浴』)1863年。油彩、キャンバス、207 × 265 cm。オルセー美術館。 ジェームズ・マクニール・ホイッスラー『白のシンフォニー第1番 - 白の少女』1862年。油彩、キャンバス、213 × 107.9 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。
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