国民美術協会とは? わかりやすく解説

国民美術協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 13:36 UTC 版)

国民美術協会(こくみんびじゅつきょうかい)は、日本の美術家による団体である。1913年大正2年)3月に発足し、美術館建設運動などを行った。戦時中の1940年代前半には活動を停止した。

創立

1912年(大正元年)11月、第6回文展審査発表後に美術家の懇親会が行われた際、松岡寿黒田清輝岩村透らが偶然の話題から盛り上がり、分野を超えた美術団体の設立を呼びかけた。即刻、森鷗外を座長とする規則起草委員会が作られ、翌年3月の設立総会によって発足した。

モデルになったのはフランスの国民美術協会(Société Nationale des Beaux-Artsソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)である。従来の日本の美術界は各分野のまとまりがなく、派閥に分かれて対立ばかりしていた。「美術家の大同団結」を図り、政府への建議や、一般社会への美術の普及活動など、美術界の発展を計るために創設されたものである。

初代会頭には最初、黒田清輝が推薦されたが、一部の画家が反発。その対立を一言で収めた建築家の中條精一郎が就任。絵画(西洋画・日本画)、彫塑、装飾美術、建築、学芸と幅広い分野を対象とする団体となり、1913年(大正2年)9月に社団法人化された[1]。1915年12月時点で、総会員数は300名を超えていた[2]

協会の活動

国民美術協会の活動は多岐に及ぶ。毎年展覧会を開催したが、元来が「美術と社会」を結ぶ諸活動を眼目としたので、会員作品展覧会は必ずしも主要事業ではなかった。ただし、「エジプト・ペルシャ・ローマの古品」「西洋の影響を受けたる日本版画」「内外グロテスク作品」「内外農民美術」などの特別陳列を行い、近代日本における「企画展覧会」の先駆けになる。1914年から1929年にかけては、松方蒐集美術を含む外国美術展も積極的に行った。

大正時代当時、十分な美術展示を行える会場がなかったことから、国民美術協会が中心となって粘り強い美術館建設運動を行った。その結果、1926年(大正15年)に東京府美術館が開館した。その他、裸体作品取締に対する抗議と建議、東京美術学校改革運動(1915年)、美術局および美術院の設置要求、帝展第四部設置運動(官設展覧会における装飾美術、工芸の地位向上)、美術ジャーナリズムの振興、都市の美観の推進(都市環境政策の提言)など、現代にも通じる様々な活動を行っている。協会の創設を主導した岩村透の構想ではさらに、隔年の国際美術展(ビエンナーレ)の開催や、美術家の養老・遺族扶助などまで含まれていた。

国民美術協会では、建築部の活動が盛んだったことが知られ、会頭の中條精一郎の他、横河民輔伊東忠太関野貞武田五一佐藤功一佐野利器後藤慶二岡田信一郎内田祥三など世代を超える40名以上が名を連ね、美術家たちと共働した。関東大震災の翌年(1924年)には、多くの若手建築家が参加する「帝都復興創案展」を開催した。

その後

国民美術協会を主導したのは岩村透、黒田清輝、中條精一郎、美術編集者の坂井犀水らであった。岩村が1917年に病で早逝した後は、美術知識の普及のために岩村記念美術講演会が企図され、13回(1933年まで)行われた。1919年に中條は会頭を辞任し、黒田が会頭に就任。黒田が1924年に逝去すると再び中條が会頭に就いた。

1926年の東京府美術館設立、1927年帝展第四部(工芸)新設を一つの区切りとして次第に活動が停滞し、1930年代後半には展覧会等もほとんど開催されなくなった。1936年に中條が逝去後、追悼文集『中条精一郎』を刊行(1937年)。戦時体制下では、ほとんど記録も見当たらなくなる[3]。1943年の坂井の死去をもって自然消滅したと推定される。

戦後長らく忘却されてきたが、近年、その活動が実証的に明らかになっている。美術史家の今橋映子は日本の美術行政、文化行政、アートマネージメントがどのように発展してきたかを知るためにも、重要な団体と評価している。

会頭

  • 中條精一郎(1913-1919)
  • 黒田清輝(1919-1924)
  • 中條精一郎(1924-1933)
  • 大河内正敏(1933-43頃か)

主要文献

  • 『国民美術協会報告』1913年12月、『近代美術雑誌叢書・第Ⅱ期 別冊付録』所収、ゆまに書房、1998年、pp.69-84.
  • 石井柏亭『国民美術協会略史』[4]国民美術協会、1930年
  • 坂井犀水「回顧二十年―国民美術協会の業績等々―」『アトリエ』第10巻7号、1933年7月、pp.26-41.
  • 国民美術協会編『中條精一郎』[5] 1937年
  • 和田嘉宥「国民美術協会について(大正建築界への影響を探る)」『米子高等専門学校研究報告』第14号、1978年12月、pp.47-52.
  • 山梨絵美子「黒田清輝と国民美術協会」東京文化財研究所編、『大正期美術展覧会の研究』所収、2005年3月、pp.375-391.
  • 朴昭炫 『「戦場」としての美術館――日本の近代美術館設立運動/論争史』ブリュッケ、2012年
  • 今橋映子『近代日本の美術思想——美術批評家・岩村透とその時代』下巻、白水社、2021年(第15章「美術行政とアーツマネジメントへのめざめ——国民美術協会という遺産」、pp.149-205.)

注釈

  1. ^ 「官報」1913年9月30日[1]。当初の理事は中條精一郎(建築)、和田英作(洋画)、津田信夫(工芸)、島田豊(墨仙)(日本画)、新海竹太郎(彫刻)。
  2. ^ 森鴎外記念館が国民美術協会の『会員名簿』(1915年12月10日現在)を所蔵。
  3. ^ 「官報」1939年9月16日[2]に事務所移転、理事就任の記事がある。1940年11月刊の『美術綜覧』[3]によれば、この頃の理事は辻永(洋画)、小倉右一郎(彫刻)、中村順平(建築)、森田亀之助(美術史)、島田墨仙(日本画)であった。

国民美術協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 06:19 UTC 版)

サロン・ドートンヌ」の記事における「国民美術協会」の解説

一方、すでに1861年ル・サロン内部でも運営方針反対し、芸術家自らの運営による独立性確保するために、同年画廊開いた画家画商のルイ・マルティネ(フランス語版) と作家テオフィル・ゴーティエによって国民美術協会(通称「ラ・ナシオナル」)が結成されドラクロワコロードービニーアンリ・ラマンマネ、ブラックモン、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌらが参加した以後落選展だけでなく、1874年ル・サロン落選したセザンヌドガモネピサロルノワールらが写真家ナダールアトリエ抗議のための展覧会開催するなど、独立分派活動次々と起こったこうした動き画壇だけでなく、俳優演出家アンドレ・アントワーヌ1680年創設国立劇場コメディ・フランセーズ権威主義批判し若手劇作家作品上演機会与えるために自由劇場立ち上げるなど、他の芸術分野でも起こっていた。

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「国民美術協会」を含む「サロン・ドートンヌ」の記事については、「サロン・ドートンヌ」の概要を参照ください。

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