自由劇場とは? わかりやすく解説

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じゆう‐げきじょう〔ジイウゲキヂヤウ〕【自由劇場】


自由劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/28 15:49 UTC 版)

自由劇場(じゆうげきじょう)は、作家・小山内薫歌舞伎俳優・二代目市川左團次が始めた新劇運動である。1909年から1919年にかけて9回の公演(試演)を行った。


  1. ^ 小山内・左団次著『自由劇場』(1912年)参照
  2. ^ 毛利三彌『イプセンの世紀末 後期作品の研究』(白凰社 1995)
  3. ^ 井上理恵『川上音二郎と貞奴』(社会評論社)
  4. ^ 大久保は帝国大学医学部出身。在学中は森鷗外の家に寄宿していた。1906年に大学卒業後、文部省留学生としてドイツ、フランスへ留学した。当時はミュンヘンにおり、現地でボルクマンの舞台を見ていた。小山内は大久保からの手紙を『読売新聞』(1909年12月19日付)で紹介している。なお、大久保は帰国直前の1910年6月、腸チフスに罹り、留学先で客死した。
  5. ^ これより先に(1908年1月)明治座で改革を行った際、市川翠扇と旭梅(団十郎の娘)、紫扇、松蔦の4人を起用し、翠扇が『袈裟と盛遠』の袈裟、旭梅が『ヴェニスの商人』のポーシャを演じた。これが日本の女優の始めとされる。『明治大正新劇史資料』p.53。


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自由劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:42 UTC 版)

市川左團次 (2代目)」の記事における「自由劇場」の解説

左團次は松居松葉とともに欧米視察に出かけ、海外新し演出法や興行法見て大きな刺激受けた歌舞伎界の革新志して帰国明治座改良しようとするが、周囲反対失敗その後小山内薫意気投合し会員制の自由劇場を始めた。 自由劇場は1909年明治42年11月有楽座第1回公演行った演目イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(森鷗外訳)で、ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者出演した鷗外の『青年』に自由劇場初演様子描かれている。 以後、自由劇場は第9回まで行われ前後して発足した坪内逍遥文芸協会とともに新劇運動のはしりとなった。自由劇場は当時知識人新鮮な感動与えた

※この「自由劇場」の解説は、「市川左團次 (2代目)」の解説の一部です。
「自由劇場」を含む「市川左團次 (2代目)」の記事については、「市川左團次 (2代目)」の概要を参照ください。

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