アジア・アフリカ
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アフリカ エジプトでは紀元前40世紀頃より国家機構が形成されて、家畜や穀物、鉱物などが各地で租税として徴収された。腐敗の怖れの高いものは地元の行政に支出され、それ以外の物資が中央のファラオの倉庫に送られた。倉庫の管理には会計記録官をはじめとする記録官や人夫が配置され、会計記録官はパピルスに葦草の筆で記録した。政府の経理文書は上質のパピルス、計算書は低質のパピルスまたは上質のパピルスの断片を使った。神殿や王宮、地方の役所には書記の学校があり、教育を受ける余裕のある家庭ならば、庶民でも訓練を受けて書記に任命される機会があった。古代エジプト神話においては、知識の神トートが書記の守護者であり、文書を保管する役所ではトートの像が祀られた。現物経済のため、生産物の貯蔵、食糧や土地の配分のための計算が多用された。このため現存するエジプト数学の記録には、単位分数が多い。アレクサンドロス3世による征服ののちは、プトレマイオス朝をへてヘレニズムやローマの影響を受けた財政となっていった。 西アジア メソポタミアには、粘土製のトークン(証票)と、ブッラと呼ばれる粘土製の容器があった。これらは紀元前35世紀のウルク文化中期において、計算や物資の管理に使われたとされる。シュメルでは、文字を読めない者のためにトークンとブッラが粘土板と併用された。紀元前22世紀から紀元前21世紀のウル第三王朝の時代には、シュルギ王が官僚機構の大規模化、度量衡・会計・文書記録の整備を進めた。紀元前18世紀のバビロニアのハンムラビ法典には、商取引・委託受託・賃貸借・貸借の契約についても書かれている。 アラビア半島から広まったイスラームでは、『クルアーン』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている。初期のイスラーム指導者であるウマル1世は、軍に給料を支払うために受給者名簿を作成し、名簿をもとに現金と現物で支給した。この財政は、軍による征服地の分配と現地人の奴隷化を禁止する意図があった。受給者名簿はディーワーンと呼ばれ、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝において官庁を指す言葉になる。ウマイヤ朝のディーワーン制度は、アッバース朝をはじめとするのちのイスラーム王朝に引き継がれた。また、インド数字が古代から西アジアに入り、アラビア語文献でも使用が始まった。773年には、インドからの使節がアル=マンスールが治めるバグダードを訪れて記数法を宮廷に伝えた。 南アジア 紀元前4世紀のマガダ国ではパリサトという行政機関が設置され、ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職が王家・官庁・法廷で計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣に属するガナカの記述があり、マウリヤ朝の政治家カウティリヤが書いた『実利論』にはサンキヤーナカの仕事が書かれている。マウリヤ朝の官僚制度はクシャーナ朝にも引き継がれ、中央の主税官、税務官、地方の会計官などがいた。クシャーナ朝時代に作られたとされる『マヌ法典』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産、奴隷、債務弁済、カーストごとの利息、商税や年貢について定められていた。 古代インドにおいて、現在の会計で使われている数字の原型が作られた。紀元前3世紀頃には、シャーラダー数字によってゼロと1から10までの数字で全ての数を表せるようになった。インド文化は膨大な桁数の数を用いたが、ヴェーダやジャイナ教においては宗教や哲学が目的であり、商業計算の記録は3世紀から4世紀のバクシャーリー写本からとなる。 東アジア 紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて栄えた西周では、住民から九賦・九貢・九職を徴収し、それぞれ特定の支出に振り分けた。九賦は現在の経常収入、九貢は非経常収入にあたる。財政の最高責任者は天官太宰で、その下に司会と呼ばれる会計の官僚がいた。記帳をする最初期の会計として、国家財政を扱った九府出納がある。紙が普及する前は、獣骨や亀甲、竹簡や木簡に記録しており、一般の商人が紙を使うようになったのは唐からといわれる。 帳簿(簿書)は、流水帳と呼ばれる方式で記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿の保存や決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一の記録として始まり、のちに日記帳にあたる草流、財の種類や収支を区別する細流、総勘定元帳にあたる総青の3つに細分化していった。秦が成立すると中央集権を整えたことで草流、細流、総青を使い分けた。前漢の財政は帝室と政府で収入・支出を分けており、帝室財政は少府、国家財政は治粟内史が担当した。この財政の分別と、課税種類の増加によって、草流と細流が発展した。 算木の記数法。正の数は赤、負の数は黒で表した。 0123456789縦式 横式 記数法では、紀元前15世紀から紀元前12世紀の甲骨文字で10進法が使われていた。秦から漢にかけて行政の必要から記数法が発達し、算木を用いた位取り計算が行われた。紀元前2世紀から紀元後1世紀の数学書とされる『九章算術』には、穀物の比率、財産や金銭の分配、税金などの計算法がある。財政術を伝える書物が書かれるようになり、唐の官僚である李吉甫は国家会計に関する書として『元和国計簿』(807年)を発表した。同時期に『大和国計』という書も発表されている。 日本 7世紀以降の律令制時代には、租庸調という税が定められ、財政責任者の太政官は四度公文と呼ばれる文書で各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳、調庸帳、朝集帳を指す。租については正税帳という決算報告書、調庸については調庸帳という納税報告書にあたる文書が作られた。これらの文書は正倉院文書として管理された。 貴族や仏教寺院が管理する荘園でも決算報告が制度化されていた。初期の荘園の会計記録として、755年から757年の桑原庄劵と呼ばれる文書がある。これは収支報告書にあたるもので、東大寺が坂井郡の桑原庄を経営した記録である。荘園の総面積、荘園からの収入・支出・残高、荘園の動産や不動産が書かれている。飛鳥時代までの財政に関する記録には、木簡が使われていた。奈良時代には和紙の生産が増え、戸籍、財政報告、証文の記録に使われていた。
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イスラーム世界 アッバース朝は、文書行政や財政管理のためにアラビア語の書記術を確立し、財務書記や財務官に算術や帳簿術・会計術を伝える内容をそろえた。書記術はイスラームの伝播にともなって各地に伝わり、ペルシアではペルシア語による文書・財務の指南書として発達した。これがイラン式簿記術として確立され、オスマン帝国に普及していった。イスラームの文書・財務の指南書はペルシアを通じて中央アジアや南アジアにも伝わり、イラン式簿記術がイスラーム政権で用いられた。 イスラームにはワクフと呼ばれる寄進制度があり、寄進されたワクフ財は公共目的にあてられてカーディーらが監督した。所有権を放棄されたワクフ財は寄進ごとに一つの組織として扱われ、私有財産や国家、特定の宗教の財産とは別個だった。会計では収入がワクフ財源・前期繰越金、支出が手当・諸経費・修理費などになる。ワクフの種類には住宅、公共施設、農地、商業不動産の他に、利子で運用する現金もあり、インフラの維持に役立ちつつ善行のための資金調達という役割を果たした。ワクフは12世紀から増加し、特に14世紀のペストによる人口減少の影響で急増した。 古代にインドから伝わった記数法は、10世紀には一般にも普及していた。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界を通してヨーロッパに伝わるようになる。イベリア半島のアンダルスのウマイヤ朝や、アフリカのムワッヒド朝が入り口となった。 東アジア 中国では、単一の記録として始まった流水帳から三脚帳法が考案された。これは現金収支のある取引は現金の相手方勘定だけ一つ記録し、現金収支のない取引は内容を示す双方の勘定に二つ記録するので、一つと二つの要素を合わせて三脚と呼ぶ。三脚帳法の営業損益は半年または1年ごとに決算を行うことが多く、毎月決算をする者もいた。 宋において流水帳が進展し、財物の類別総括計算と明細分類計算を行うようになった。授受の時に草流に記録し、これを官庁の各部門で区分・整理して総括分類帳(細流)に入・出・残余を記録し、上位部門は報告をもとに再整理して総青帳に記録した。モンゴル帝国が中国を統一して元となると、モンゴル時代から協力してきたムスリムやウイグル商人が宮廷に参入した。ムスリムが財務官僚として活動し、オルトクと呼ばれる特権商人は王族から資金を預かって貿易などに投資した。漢人やキリスト教徒もオルトクに加わった。 日本における最古の商業帳簿は、現在の質屋にあたる土倉の債権簿とされる。土倉の帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降の荘園には年貢散用状と呼ばれる決算報告書があり、散用状を作成するために日記の覚書が使われた。戦国時代の末には日記が貸付簿としても使われており、伊勢神宮の御師である宮後三頭大夫の『国々御道者日記』によれば、日記は初穂料の受取・貸付・為替の受払などを記録する金銭出納簿でもあった。御師は参詣者への宿泊の手配や貸付も行っており、この日記を日本最古の商業帳簿とする説もある。種々の取引を記録していた日記は、やがて近世に大福帳、仕入帳、売帳、買帳など目的別に作成されるようになった。
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中国 明、清の時代に商工業が急速に発展し、会計も変化する。現在の銀行にあたる銭荘や票号と呼ばれる金融機関は財物や金銭の管理をしていたため帳簿が発達し、該項(負債・資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織の細分化が進んだ。明清交替の時代には、龍門帳と呼ばれる方法が思想家の傅山によって考案された。龍門帳は単式記帳法や三脚帳法と異なり、総青を4項目の勘定口座に記録する。これによって項目別の計算が可能になり、勘定科目別の計算、決算、決算報告書の作成が容易になった。龍門帳は複式簿記としての特徴をそなえたともいわれる。18世紀中頃の乾隆期から嘉慶期にかけては、四脚帳法が考案された。上方には収(来帳)を記入し、下方には付(去帳)を記入する。上方(天)と下方(地)が均衡すれば記録が正確なことになるので、天地合帳とも呼ばれた。 貿易面では、19世紀前半までの広東貿易体制において帳簿振替で決済した。これは当事者間の相対決済で金融機関の介在が不要であり、帳尻の部分だけを資金移動した。清の時代には華僑と呼ばれる海外の中国系人口が急増し、この方法が使われた。 1840年のアヘン戦争以後は欧米の進出が始まり、鉄道や電信の事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記が紹介される。中国の記帳法には、指導や教育に使える書籍がなく、統一性に欠けていた。海外赴任の経験者である蔡錫勇(中国語版)は、中国の記帳法を欧米の貸借複式簿記に組み入れる方法を考え、『連環帳譜』(1905年)を出版する。この本が、中国初の民間向けの簿記書となった。謝霖(中国語版)と孟森(中国語版)は、日本で欧米式簿記を学習し、『銀行簿記學』(1907年)を発表して中国に広めた。最初に複式簿記を導入した中国系企業は、1908年の大清銀行(中国語版)となった。 日本 江戸幕府は財政管理を勘定所で行い、統轄をする勘定頭は元禄時代以降に勘定奉行と呼ばれるようになった。勘定所では勘定、勘定吟味役、御金奉行、御蔵奉行、切米手形改役などの役人が働いた。日記や日記帳と呼ばれていた商業帳簿は、近世には大福帳(売掛帳)・金銀出入帳・売帳・判取帳・荷物渡帳など用途別に分かれた。各商家によって形式が異なり、独自の符丁を使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった。大福帳は江戸時代に成立した商業帳簿で、買帳、売帳、金銀出入帳などを統括し、売掛金や残高などを記録する得意先元帳としてよく使われた。最古の大福帳は、伊勢商人の冨山家の「足利帳」で、元和元年(1615年)の記述がある。計算具であるそろばんは、17世紀の中頃から末頃に庶民に普及し、元禄時代には商人の間で必須の道具となった。 和式会計の特徴として、多帳簿制収支簿記という簿記法がある。勘定口座を帳簿に書かずにそろばんで計算をして集計表を作成できるため、そろばん勘定が洋式簿の勘定口座と同様の機能を果たした。和式簿は入金欄と出勤欄を分けず、金額の頭に「入」か「出」を書いて加減を計算して残高を導くようになっている。明治期に洋式の複式簿記法が移入されたのちも、そろばんの計算は残った。江戸時代から、商家の他にも武家や農家で帳簿をつけていた。武家の帳簿は日記帳が主であり、農家では穀類や麺類の数量計算や、種籾・端境期の食糧についての貸付量計算を主としていた。 欧米の簿記は、明治政府成立の前後に移入が始まった。初めて洋式簿記を紹介したのは、福澤諭吉の『帳合之法』(1873年(明治6年))だった。福澤諭吉が1879年に創設した簿記講習所においても簿記教育が開始された。大蔵省や横須賀製鉄所で使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替えが進んだ。明治政府は洋式簿記を重視し、明治10年代に簿記の教科書が多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、家計簿について最初に教えた本であり、略式簿記の作成法が書いてあった。1908年には雑誌『婦人之友』が創刊され、同時期に羽仁もと子が家計簿を刊行して現在まで続くことになる。フランスの商事王令をもとにヨーロッパで作られた商法は明治期の日本に移入し、商業帳簿制度が1890年(明治23年)の旧商法、1899年(明治32年)の新商法で定められた。 朝鮮 朝鮮半島の最初期の商業簿記は、開城簿記や四介松都治簿法と呼ばれる。開城簿記の帳簿は、基礎帳簿と明細帳簿に大きく分かれる。基礎帳簿は、日々の記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる。決算は決算書・損益表の作成と元帳決算で行われる。実務では、日記帳で現金仕訳をして、それを貸借に分割して長冊に転記した。 オスマン帝国 オスマン帝国の財政は財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20人程度と少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳の作成や官僚制度の整備にともなって増員された。租税台帳は各地の担税力を示す明細帳と、地域の徴税権が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記、カーディーが作成した。19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務・外務・財務の省庁が組織された。 寄進制度であるワクフの利用は14世紀から16世紀にかけても増加し、オスマン時代には都市のインフラ維持に欠かせない制度となった。イスラーム法では女性の財産権が定められており、妻と夫の財産は区別されているので、財産をもつ女性はワクフを資産運用としても活用した。 アフリカ アフリカでは、ヨーロッパ各国が奴隷貿易を行った。やがて奴隷貿易の禁止が進むと、ヨーロッパ各国はアフリカ分割によって植民地化して利益を得ようとした。植民地では、本国の会計制度をもとに経営が行われ、現地の伝統的な制度に変化をもたらした。 かつてのアフリカの無文字社会では、金融などで公平な記録の必要がある場合は壁に印をつけるなどの方法が取られた。ヨーロッパと取引をしたダホメ王国も無文字社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度と正確な会計を整えていたとされる。人口統計は箱に小石を入れて記録し、性別や職業別の労働者数はシンボルをつけた袋で把握した。家畜の統計では、種類別のシンボルをつけた袋に小石やタカラガイを入れた。それらの情報をもとに徴税や徴兵を割り振り、年1回の貢租大祭を開催した。国家財政は宮廷と結びつき、行政官、会計監査官、収税吏、警察などの役割が定められていた。官僚制は双分制にもとづき、役人は必ず男女で実務を行なった。
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アジア・アフリカ
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オランダ本国がフランスに併合されたことで、オランダの植民地もフランスの支配下となった。しかしこれらの植民地は、アミアンの和約の破棄後、制海権を確保したイギリスによって次々と攻略された。オランダ領セイロンは1796年(セイロン侵攻)、オランダ領ケープ植民地は1806年、フランス領セネガルは1809年、フランス領モーリシャスとオランダ領モルッカ諸島は1810年、オランダ領ジャワは1811年に陥落した。ウィーン会議の結果、これらのうちセネガルはフランスに、モルッカ諸島とジャワはオランダに返還されたが、セイロン、ケープ植民地、モーリシャスはイギリス領となった。
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