アジア・アフリカとは? わかりやすく解説

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アジア・アフリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 23:08 UTC 版)

会計史」の記事における「アジア・アフリカ」の解説

アフリカ エジプトでは紀元前40世紀頃より国家機構形成されて、家畜穀物鉱物などが各地租税として徴収された。腐敗怖れの高いものは地元行政支出されそれ以外物資中央のファラオ倉庫送られた。倉庫管理には会計記録官はじめとする記録官人夫配置され会計記録官パピルス葦草の筆で記録した政府経理文書上質パピルス計算書低質パピルスまたは上質パピルス断片使った神殿王宮地方役所には書記学校があり、教育を受ける余裕のある家庭ならば、庶民でも訓練受けて書記任命される機会があった。古代エジプト神話においては知識の神トート書記守護者であり、文書保管する役所ではトートの像が祀られた。現物経済のため、生産物貯蔵食糧土地配分のための計算多用された。このため現存するエジプト数学記録には、単位分数が多い。アレクサンドロス3世による征服ののちは、プトレマイオス朝をへてヘレニズムローマ影響受けた財政となっていった。 西アジア メソポタミアには、粘土製のトークン証票)と、ブッラ呼ばれる粘土製の容器があった。これらは紀元前35世紀ウルク文化中期において、計算物資管理使われとされるシュメルでは、文字読めない者のためにトークンとブッラ粘土板併用された。紀元前22世紀から紀元前21世紀ウル第三王朝時代には、シュルギ王官僚機構大規模化度量衡会計文書記録整備進めた紀元前18世紀バビロニアハンムラビ法典には、商取引委託受託賃貸借貸借契約についても書かれているアラビア半島から広まったイスラームでは、『クルアーン』の第2章282節と283節において、貸借関係を明らかにする必要が書かれている初期イスラーム指導者であるウマル1世は、軍に給料支払うために受給者名簿作成し名簿をもとに現金現物支給した。この財政は、軍による征服地の分配現地人奴隷化禁止する意図があった。受給者名簿ディーワーン呼ばれ最初イスラーム王朝であるウマイヤ朝において官庁を指す言葉になる。ウマイヤ朝ディーワーン制度は、アッバース朝はじめとするのちのイスラーム王朝引き継がれた。また、インド数字古代から西アジア入りアラビア語文献でも使用始まった773年には、インドからの使節アルマンスール治めバグダード訪れて記数法宮廷伝えた南アジア 紀元前4世紀マガダ国ではパリサトという行政機関設置され、ガナカやサンキヤーナカと呼ばれる役職王家官庁法廷計算をしていた記録があり、現在の会計士にあたる。仏典では大臣属するガナカの記述があり、マウリヤ朝政治家カウティリヤ書いた実利論』にはサンキヤーナカの仕事書かれているマウリヤ朝官僚制度クシャーナ朝にも引き継がれ中央の主税官、税務官、地方会計官などがいた。クシャーナ朝時代作られとされるマヌ法典』には、第8条と第39条に会計についての規定がある。不動産奴隷債務弁済カーストごとの利息商税年貢について定められていた。 古代インドにおいて、現在の会計使われている数字原型作られた。紀元前3世紀頃には、シャーラダー数字によってゼロ1から10までの数字全ての数を表せようになったインド文化膨大な桁数の数を用いたが、ヴェーダジャイナ教において宗教哲学目的であり、商業計算記録3世紀から4世紀バクシャーリー写本からとなる。 東アジア 紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて栄えた西周では、住民から九賦・九貢・九職を徴収しそれぞれ特定の支出振り分けた。九賦は現在の経常収入、九貢は非経常収入にあたる。財政最高責任者天官太宰で、その下に司会呼ばれる会計官僚がいた。記帳をする最初期会計として、国家財政扱った九府出納がある。紙が普及する前は、獣骨亀甲竹簡木簡記録しており、一般商人が紙を使うようになったのは唐からといわれる帳簿(簿書)は、流水帳と呼ばれる方式記録された。発生順に書いてゆく備忘的な記録であり、帳簿保存決算はなかった。この形式が清まで一般的に続くことになる。流水帳は単一記録として始まり、のちに日記帳にあたる流、財の種類収支区別する細流総勘定元帳にあたる総青の3つ細分化ていった。秦が成立する中央集権整えたことで流、細流、総青を使い分けた前漢財政帝室政府収入支出分けており、帝室財政少府国家財政治粟内史担当した。この財政分別と、課税種類増加によって、流と細流発展した算木記数法正の数は赤、負の数は黒で表した。 0123456789縦式 横式 記数法では、紀元前15世紀から紀元前12世紀甲骨文字10進法使われていた。秦から漢にかけて行政の必要から記数法発達し算木用いた位取り計算が行われた。紀元前2世紀から紀元後1世紀数学書とされる九章算術』には、穀物比率財産金銭分配税金などの計算法がある。財政術を伝え書物書かれるようになり、唐の官僚である吉甫は国家会計に関する書として『元和国計簿』(807年)を発表した同時期に大和国計』という書も発表されている。 日本 7世紀以降律令制時代には、租庸調という税が定められ財政責任者太政官四度公文呼ばれる文書各地から報告をさせた。四度公文とは大帳 (計帳)、正税帳調庸帳、朝集帳を指す。租については正税帳という決算報告書、調庸については調庸帳という納税報告書にあたる文書作られた。これらの文書正倉院文書として管理された。 貴族仏教寺院管理する荘園でも決算報告制度化されていた。初期荘園会計記録として755年から757年桑原庄劵と呼ばれる文書がある。これは収支報告書にあたるもので、東大寺坂井郡桑原庄を経営した記録である。荘園総面積荘園からの収入支出残高荘園動産不動産書かれている飛鳥時代までの財政に関する記録には、木簡使われていた。奈良時代には和紙生産増え戸籍財政報告証文記録使われていた。

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イスラーム世界 アッバース朝は、文書行政財政管理のためにアラビア語書記術を確立し財務書記財務官算術帳簿術・会計術伝え内容そろえた書記術はイスラーム伝播ともなって各地伝わりペルシアではペルシア語による文書財務指南書として発達した。これがイラン簿記術として確立されオスマン帝国普及していった。イスラーム文書財務指南書ペルシア通じて中央アジア南アジアにも伝わりイラン簿記術がイスラーム政権用いられた。 イスラームにはワクフ呼ばれる寄進制度があり、寄進されワクフ財は公共目的あてられカーディーらが監督した所有権放棄されワクフ財は寄進ごとに一つ組織として扱われ私有財産国家特定の宗教財産とは別個だった。会計では収入ワクフ財源前期繰越金支出手当諸経費修理費などになる。ワクフ種類には住宅公共施設農地商業不動産の他に、利子運用する現金もあり、インフラ維持役立ちつつ善行のための資金調達という役割果たしたワクフ12世紀から増加し、特に14世紀ペストによる人口減少影響急増した古代インドから伝わった記数法は、10世紀には一般に普及していた。さらに、インド・アラビア数字としてイスラーム世界通してヨーロッパに伝わるようになるイベリア半島アンダルスのウマイヤ朝や、アフリカムワッヒド朝入り口となった東アジア 中国では、単一記録として始まった流水帳から三脚帳法が考案された。これは現金収支のある取引現金相手方勘定だけ一つ記録し現金収支のない取引内容を示す双方勘定二つ記録するので、一つ二つ要素合わせて三脚と呼ぶ。三脚帳法の営業損益半年または1年ごとに決算を行うことが多く毎月決算をする者もいた。 宋において流水帳が進展し財物類別総括計算明細分類計算を行うようになった授受時に流に記録し、これを官庁各部門区分整理して総括分類帳(細流)に入・出残余記録し上位部門報告をもとに再整理して総青帳に記録したモンゴル帝国中国統一してとなるとモンゴル時代から協力してきたムスリムウイグル商人宮廷参入したムスリム財務官僚として活動しオルトク呼ばれる特権商人王族から資金預かって貿易などに投資した漢人キリスト教徒オルトク加わった日本における最古商業帳簿は、現在の質屋にあたる土倉債権簿とされる土倉帳簿は、日記または日記帳という名称で記録されていた。平安期以降荘園には年貢散用状呼ばれる決算報告書があり、散用状作成するために日記覚書使われた。戦国時代の末には日記貸付簿としても使われており、伊勢神宮御師である宮後三頭大夫の『国々道者日記によれば日記初穂料受取貸付為替受払などを記録する金銭出納簿でもあった。御師参詣者への宿泊の手配や貸付行っており、この日記日本最古商業帳簿とする説もある。種々の取引記録していた日記は、やがて近世大福帳仕入帳売帳買帳など目的別作成されるようになった

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会計史」の記事における「アジア・アフリカ」の解説

中国 明、清の時代商工業急速に発展し会計変化する現在の銀行にあたる銭荘票号呼ばれる金融機関財物金銭管理をしていたため帳簿発達し、該項(負債資本)と存項(資産)の区別や、帳簿組織細分化進んだ明清交替時代には、龍門帳と呼ばれる方法思想家傅山によって考案された。龍門帳は単式記帳法三脚帳法と異なり、総青を4項目の勘定口座記録する。これによって項目別の計算可能になり、勘定科目別の計算決算決算報告書の作成容易になった。龍門帳は複式簿記としての特徴そなえたともいわれる18世紀中頃乾隆期から嘉慶期にかけては、四脚帳法が考案された。上方には収(来帳)を記入し下方には付(去帳)を記入する上方(天)と下方(地)が均衡すれば記録正確なことになるので、天地合帳とも呼ばれた貿易面では、19世紀前半まで広東貿易体制において帳簿振替決済した。これは当事者間相対決済金融機関介在不要であり、帳尻部分だけを資金移動した。清の時代には華僑呼ばれる海外中国人口急増しこの方法が使われた。 1840年アヘン戦争以後欧米進出始まり鉄道電信事業とともに業務管理のために欧米式の複式簿記紹介される中国記帳法には、指導教育使える書籍がなく、統一性欠けていた。海外赴任経験者である蔡錫勇(中国語版)は、中国記帳法欧米貸借複式簿記組み入れる方法考え、『連環帳譜』(1905年)を出版する。この本が、中国初の民間向け簿記となった。謝霖(中国語版)と孟中国語版)は、日本欧米簿記学習し、『銀行簿記學』(1907年)を発表して中国広めた最初に複式簿記導入した中国企業は、1908年大清銀行中国語版となった日本 江戸幕府財政管理勘定所行い統轄をする勘定頭元禄時代以降勘定奉行呼ばれるようになった勘定所では勘定勘定吟味役御金奉行御蔵奉行切米手形改役などの役人働いた日記日記帳呼ばれていた商業帳簿は、近世には大福帳売掛帳)・金銀出入帳売帳判取帳荷物渡帳など用途別分かれた。各商家によって形式異なり、独自の符丁使っている場合も多い。大商家の帳簿には複式構造を持つものもあった。大福帳江戸時代成立した商業帳簿で、買帳売帳金銀出入帳などを統括し売掛金残高などを記録する得意先元帳としてよく使われた。最古大福帳は、伊勢商人の冨山家の「足利帳」で、元和元年1615年)の記述がある。計算具であるそろばんは、17世紀中頃から末頃に庶民普及し元禄時代には商人の間で必須の道具となった和式会計特徴として、多帳簿収支簿記という簿記法がある。勘定口座帳簿書かずそろばん計算をして集計表を作成できるため、そろばん勘定洋式簿の勘定口座同様の機能果たした和式簿は入金出勤分けず金額の頭に「入」か「出」を書いて加減を計算して残高を導くようになっている明治期洋式複式簿記法が移入されたのちも、そろばん計算残った江戸時代から、商家の他にも武家農家帳簿をつけていた。武家帳簿日記帳が主であり、農家では穀類麺類数量計算や、種籾端境期食糧についての貸付計算主としていた。 欧米簿記は、明治政府成立前後移入始まった初め洋式簿記紹介したのは、福澤諭吉の『帳合之法』(1873年明治6年))だった。福澤諭吉1879年創設した簿記講習所においても簿記教育開始された。大蔵省横須賀製鉄所使用される他に、商家でも和式から洋式への切り替え進んだ明治政府洋式簿記重視し明治10年代簿記教科書多数出版された。中でも遠藤宗義編の『小學記簿法』は、家計簿について最初に教えた本であり、略式簿記作成法書いてあった。1908年には雑誌婦人之友』が創刊され同時期に羽仁もと子家計簿刊行して現在まで続くことになる。フランス商事王令をもとにヨーロッパで作られ商法明治期日本移入し商業帳簿制度1890年明治23年)の旧商法1899年明治32年)の新商法定められた。 朝鮮 朝半島最初期商業簿記は、開城簿記や四介都治簿法と呼ばれる開城簿記帳簿は、基礎帳簿明細帳簿に大きく分かれる基礎帳簿は、日々記入簿と仕訳日記帳にあたる日記と、総勘定元帳にあたる長冊に大きく分かれる決算決算書損益表の作成元帳決算行われる実務では、日記帳現金仕訳をして、それを貸借分割して長冊に転記した。 オスマン帝国 オスマン帝国財政財務長官府を頂点として財務官僚に運営された。15世紀時点では20程度少数であり、15世紀から17世紀にかけての租税台帳作成官僚制度整備ともなって増員された。租税台帳各地担税力を示す明細帳と、地域徴税が誰に分配されたかを示す簡易帳に分かれており、台帳作成官、書記カーディー作成した19世紀に入ると、ヨーロッパ型の内務外務財務省庁組織された。 寄進制度であるワクフ利用14世紀から16世紀かけても増加しオスマン時代には都市インフラ維持欠かせない制度となったイスラーム法では女性財産権定められており、妻と夫の財産区別されているので、財産をもつ女性ワクフ資産運用としても活用したアフリカ アフリカでは、ヨーロッパ各国奴隷貿易行った。やがて奴隷貿易禁止が進むと、ヨーロッパ各国アフリカ分割によって植民地化して利益得ようとした。植民地では、本国会計制度をもとに経営が行われ、現地伝統的な制度変化もたらした。 かつてのアフリカ無文社会では、金融などで公平な記録必要がある場合は壁に印をつけるなどの方法取られた。ヨーロッパ取引をしたダホメ王国無文社会だったが、ヨーロッパ側の記録によれば精緻な官僚制度正確な会計整えていたとされる人口統計は箱に小石入れて記録し性別職業別労働者数シンボルをつけた袋で把握した家畜統計では、種類別シンボルをつけた袋に小石タカラガイ入れた。それらの情報をもとに徴税徴兵割り振り、年1回貢租大祭開催した国家財政宮廷結びつき行政官会計監査官収税吏、警察などの役割定められていた。官僚制は双分制にもとづき役人は必ず男女実務行なった

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ナポレオン戦争」の記事における「アジア・アフリカ」の解説

オランダ本国フランス併合されたことで、オランダの植民地フランス支配下となった。しかしこれらの植民地は、アミアンの和約破棄後、制海権確保したイギリスによって次々と攻略された。オランダ領セイロン1796年セイロン侵攻)、オランダケープ植民地1806年フランス領セネガル1809年フランス領モーリシャスオランダモルッカ諸島1810年オランダジャワ1811年陥落したウィーン会議結果、これらのうちセネガルフランスに、モルッカ諸島ジャワオランダに返還されたが、セイロンケープ植民地モーリシャスイギリス領となった

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