アフリカ分割
アフリカ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:02 UTC 版)
それまで、東アフリカにおいて重要な役割を果たしてきたヨーロッパの国はザンジバルと緊密な関係を持っていたイギリスであったが、1884年、ドイツはタンガニーカ内陸部のいくつかの民族の首長からとりつけたという「ドイツの保護を求めた条約」を根拠に、実質的にタンガニーカをドイツの保護領とした。これはドイツ植民協会のカール・ペータースがドイツ政府の意向とは無関係に結びつけたものであったが、ドイツ宰相ビスマルクは、イギリス単独によるエジプト統治を支持したことなどの代償として、ベルリン会議直後に宣言したものであった。 このドイツの急激な進出に対してザンジバルはイギリスを介して抵抗しようとしたが、イギリスも従来のスルタンを介した交易ではなく、直接内陸部に進出することを決定した。
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アフリカ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 08:25 UTC 版)
「イギリス領東アフリカ」の記事における「アフリカ分割」の解説
1885年にベルリン会議(1884年から1885年)で決まったアフリカ分割の原則では、沿岸部を領有した国は後背地の領有も認められることになっていた。 1886年8月、後のタンザニアにあたる地域を植民地化しようとしてザンジバルに艦隊を差し向けたドイツ帝国に対して、ザンジバルからの支援要請を受けたイギリスも東アフリカに介入した。フランスを交えた三カ国の協議の結果、東アフリカに分割線が引かれ、境界線の南の現在のタンザニアに当たる部分(ドイツ領東アフリカ)をドイツが、境界線の北の現在のケニアに当たる部分をイギリスが取ることになった。その統治範囲は、ケニア最長の河川タナ川の河口からモンバサを経てドイツ領東アフリカとの境界線までの150マイル(240キロメートル)の海岸線だったため、これによる勢力圏はほぼ現在のケニアの範囲に等しくなった。
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アフリカ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)
「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「アフリカ分割」の解説
1885年にベルギー王レオポルド2世のコンゴ領有権をめぐってドイツ首相ビスマルクの主催で行われたベルリン会議後、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が盛んになった。その背景はドイツ帝国の勃興によるイギリスの相対的な地位の低下、フランスがジュール・フェリー首相以降、対独復讐(ヨーロッパ情勢)より植民地獲得を優先するようになったこと、そしてドイツで植民地獲得に消極的なビスマルクが失脚して植民地獲得を最優先する皇帝ヴィルヘルム2世の親政が開始されたことである。 もちろんソールズベリー侯爵としてもこれを座視できるわけはなく、積極的に植民地争奪戦に参加した。貿易や植民に独占権をもつ勅許会社を次々と創設して、彼らに領土拡大を行わせた。第二次ソールズベリー侯爵内閣の時に創設された勅許会社に王立ニジェール会社(英語版)や南アフリカ会社などがある。 南ナイジェリアではグラッドストン政権時代から引き続いて同地最大の都市国家オポボ(英語版)を統治するジャジャ王(英語版)とナイジェリア内陸部への進出をめぐって対立を深めた。ソールズベリー侯爵自身は慎重だったものの、現地イギリス領事たちの主導で強硬路線が取られ、1887年9月にはジャジャ王を誘き出して通商の自由を定めた保護条約に違反として彼を逮捕した。これをきっかけに1890年代にはラゴス内陸部遠征、ニジェールデルタ・ベニン地域のナナ王の排除、ブラス反乱鎮圧、ベニン王国侵攻、オベラミ排除とイギリスの内陸部侵入の遠征が本格化する。 植民地の獲得には強大な海軍力が必要であるため、1889年には「二国基準」を導入した海軍防衛法を制定した。この海軍力増強路線は後任の自由党政権にも受け継がれた(グラッドストンはこれに反発して政界引退する)。
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アフリカ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:56 UTC 版)
詳細は「アフリカ分割」を参照 19世紀後半には、アメリカ解放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の原因ともなった。緯線や経線を基準に引かれていることが多い。
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