第一次エチオピア戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > できごと > 事件・事故 > 戦争・紛争 > 19世紀の戦争 > 第一次エチオピア戦争の意味・解説 

第一次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:10 UTC 版)

第一次エチオピア戦争(だいいちじエチオピアせんそう、: First Italo–Ethiopian War)は、1894年から1896年にかけて戦われた、エチオピア帝国とその植民地化を図るイタリア王国との戦争。エチオピアに対する当時のヨーロッパ側からの呼称であるアビシニアを用いて、(第一次)アビシニア戦争とも呼ばれる。




「第一次エチオピア戦争」の続きの解説一覧

第一次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:05 UTC 版)

オレステ・バラティエリ」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説

エリトリア戦争での勝利以降エチオピア停戦していたイタリアメネリク2世傀儡化に失敗して第一次エチオピア戦争が勃発、バラティエリは2万人のエリトリア守備隊率いてエチオピア領内侵入開始した。バラティエリはコアチツの戦いでエチオピア軍の地方軍破りイタリア政府スーダンでの戦勝合わせてアフリカ人軍隊」に対す先入観強めた。ところが、エチオピア国王直属の軍は英仏支援近代的な装備訓練終えていて、状況察知したバラティエリは決戦避けて相手消耗待った。 しかし現地のバラティエリと違い状況把握しないイタリア政府はバラティエリに決戦厳命した。2月29日、アドワ北方イタリア陸軍1万7000人とエチオピア10万人が衝突アドワの戦い)、朝方始まった戦い正午終わり、ほぼ死者数両者とも1万程度だった。エチオピア軍の装備戦力差から言えば互角上の戦いだったが、数的に勝るエチオピア比べ2万人に足らないイタリア陸軍にとって死者1万致命傷だった。国内での厭戦感情前にイタリア政府エリトリア割譲メネリク2世正式に認め代わりにエチオピア独立承認したアディスアベバ条約)。イタリア政府帰還したバラティエリに敗戦責任押し付け軍法会議にかけて強制的に退役へ追い込んだオーストリアトレント戻ったバラティエリは、1901年8月7日故郷病没した。

※この「第一次エチオピア戦争」の解説は、「オレステ・バラティエリ」の解説の一部です。
「第一次エチオピア戦争」を含む「オレステ・バラティエリ」の記事については、「オレステ・バラティエリ」の概要を参照ください。


第一次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)

エチオピアの歴史」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説

イタリア支援続けたメネリク2世即位したことを、エチオピア保護国化好機みなした1889年5月イタリアエチオピアとの地位確認するウッチャリ条約締結したウッチャリ条約イタリア語アムハラ語という双方公用語用いた条文作成された。ただ、その17条の他国との交渉部分についてはイタリア語版とアムリク語版では明らかな差異があった。アムリク語では「エチオピアイタリア以外の国と交渉する際はイタリア利用してもよい」という条文だったが、イタリア語では「エチオピアイタリア以外の国と交渉する場合は、イタリア利用することに同意したとなっていた。イタリア語表現エチオピア外交権イタリア委ねるという、保護国化同意する内容となっていた。エチオピア側が条文違いに気づいたのは翌年1890年であり、諸外国の手紙がことごとくイタリア許可求めためだったメネリク2世と妻のタイトゥはすぐさまイタリア抗議申し入れるイタリア側の全権大使アントネッリは「17条を過ちだと他国通告することは、国の威信にかかわるためできない」と難色を示すが、交渉表舞台出たタイトゥは「同様にエチオピア威信尊重されるので、過ちであることはすでに各国通知した」となし崩し保護国化行動回避した。さらに5条構成され新たな協定提案イタリアからなされたが、その第3条密かにイタリア保護肯定するのだったため、「私は女であるため戦い好みませんが、これを受け入れるくらいなら戦争を選ぶ」と強硬的な姿勢見せてイタリア文書取り交わしのみで保護国化する目論見突っぱねた。タイトゥはメネリク2世以上にティグレエリートとして、領土を脅かすイタリアへ対抗意識をもっていた。また、妻と意見同じくするメネリク2世長年協力相手だったイタリアへ妥協許さず、ついに1893年2月ウッチャリ条約破棄イタリア国王ウンベルト1世通告する。この強硬姿勢の裏には、チュニジア巡ってイタリア対立していたフランス、そしてそのフランス同盟しているロシアといった勢力支援があった。1892年首都アディスアベバ(「新しい花」の意)に移したメネリク2世は、1895年エリトリア攻め込み撃退されティグレへと逃れる。これが、第一次エチオピア戦争が始まりであったイタリア軍はドガリでの借りを返すべくエチオピア領内ティグレ攻め込むが、エチオピアはそれを待ち構えて逆襲しイタリア軍敗走させるその戦い自体小競り合いといえるのだったが、イタリアへ勝利したという情報今まで静観決めていた諸部族メネリク2世側につかせた。これにより、テオドロス2世時代とは異なり団結した状態で対イタリアにあたることになる。イタリア軍総司令官バラティエリは敗北によって慎重となり、2万イタリア軍をアドワ北のソリア高原進出させたものの、補給の遅れから1か月動けずにいた。その間イタリア軍一日150グラム食料配給飢え凌ぐことを強いられ次第に不満が高まっていく。将校早期決着につながる強硬論唱えるが、バラティエリは後続援軍補給を待つことを説きイタリア軍意見二つ割れた。それでも何とか部下抑えていたバラティエリだったが、1896年2月29日、「メネリク2世、病に倒れる」という情報イタリア軍もたらされると、バラティエリも深夜出撃決意する。バラティエリはイタリア軍三隊分け21時にアドワに向けて進軍始めた一方メネリク2世コプト正教会聖堂で、イタリア軍偽情報信じて動き出した報告を受ける。3月1日新型ライフル武装する10万エチオピア軍は行動開始したアドワの戦いにおいて、イタリア軍三部隊は、本隊、アルベルトネ旅団、ダボルミダ旅団によって構成されており、それぞれ大砲と4,000丁以上の小火器有する部隊であった。だが、地形に関する知識軽視し、そのうえ夜中行軍でもあったため、アルベルトネ旅団行軍目的地見失ってしまう。午前6時、アルベルトネ旅団周囲満たすエチオピア軍の姿に、一部隊で突出していたことを知る。疲労困憊していたアルベルトネ旅団は、たちまちエチオピア軍の襲撃によって犠牲者増やしていった。バラティリはその苦境を知ると、ダボルミダ旅団にアルベルトネ旅団への救援命じる。命令受けてダボルミダ旅団はすぐに動きだしたが、不思議なことにその進軍先はアルベルトネ旅団位置とはまるで正反対方角だった。これは、後にバラティエリが回想するに、崖に阻まれ迂回しているうちに始まった迷走としている。ダボルミダ旅団エチオピア軍の只中目的失って放浪する集団となり、メネリク2世はこれを見逃さなかった。午前9時、ダボルミダ旅団民兵大隊崩壊すると、両軍入り乱れた大砲使えない乱戦となり、イタリア軍二つ旅団はたちまち殲滅されていったイタリア軍本隊支援の下、かろうじて撤退することができたが、イタリア軍死者は6,000人、捕虜も5,000人をとられる大敗だった。エチオピア損害死傷者1万人という規模だったが、全体の1割の損害にすぎなかった。このアドワの戦闘イタリア敗因は、補給尽きかけた状態で地形知らないまま敵地侵入したことによる。第一次エチオピア戦争は、半年後の1896年10月和平条約締結され終了したその内容戦前イタリア有していたエリトリアソマリア南部領有認め代わりにオガデンまでのエチオピア領有認めるというものだった。だが、エリトリアエチオピア境界をどこに置くかの協議は、再びの対立避けるために両者とも触れことはなかった。これは、1998年エチオピア・エリトリア国境紛争原因となる保留であった

※この「第一次エチオピア戦争」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「第一次エチオピア戦争」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。


第一次エチオピア戦争(1895–1896)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 02:23 UTC 版)

エチオピア軍事史」の記事における「第一次エチオピア戦争(1895–1896)」の解説

1895年から1896年にかけて、第一次エチオピア戦争は、イタリア王国エチオピア帝国アビシニア)との間で争われた。アフリカ大部分とは異なりエチオピアヨーロッパ列強による征服避けられた。1895年イタリア軍エリトリアからエチオピア侵攻した。しかし、エチオピア単一かつ合体された軍隊確立し民族の壁を破って統一したため、イタリア正規軍アドワの戦い1年以内決定的な敗北喫したこのため特別な役割果たしたのが、ロシアの軍事顧問メネリク軍の志願兵(レオニード・アルタモノフなど)であった

※この「第一次エチオピア戦争(1895–1896)」の解説は、「エチオピア軍事史」の解説の一部です。
「第一次エチオピア戦争(1895–1896)」を含む「エチオピア軍事史」の記事については、「エチオピア軍事史」の概要を参照ください。


第一次エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 15:25 UTC 版)

エチオピア戦争」の記事における「第一次エチオピア戦争」の解説

詳細は「第一次エチオピア戦争」を参照 ヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化アフリカ分割)が進む中、19世紀後半イタリアエチオピア介入始め1885年占領し1889年ウッチャリ条約によりエチオピアエリトリアイタリア支配委ねた詳細は「エリトリア#イタリア王国」を参照 また、同年隣国ソマリアイタリアとなったイタリア領ソマリランド)。独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアメネリク2世帝位襲名支援することで、間接的にエチオピア影響力行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機見たメネリク2世イタリアとの協定破棄して開戦した。単に数で上回れるだけでなく、陸軍フランスの支援で高度な近代化成し遂げていたのも大きな要因であった遠征軍指揮官であるオレステ・バラティエーリはエチオピア軍がフランス式大砲機関銃武装していることを知ると、本国本格的な派兵要請した。しかしアフリカ人相手戦争侮っていた(これは他の欧州諸国にも通ず偏見である)フランチェスコ・クリスピ首相増援拒絶し速やかな決戦命じたアドワの戦いエチオピア15万とイタリア軍1万衝突するイタリア軍側は各所包囲されながも抵抗しエチオピア軍に10000名の損害与えたが、自らも8000名の兵士失って敗北した終結後1906年にはエチオピアに関する英仏伊三協定結ばれエチオピアにおける三国利益保護のために協力することなどが決められが、1925年ベニート・ムッソリーニイタリア首相就任すると翌1926年には英伊二国間エチオピアにおける利益に関する協定結ばれたこうした動きエチオピア反発を招くのは必至だった。エリトリヤソマリランド間の連絡を図るためエチオピア領を通る鉄道敷設計画していたイタリアは、1928年エチオピア友好条約を結ぶも両国間の関係は悪化していった。 1930年頃よりイタリアエチオピア領のワルワル侵食し始めたことから小競り合い起こり欧州列強からの圧迫もあって両国1934年9月友好不侵略協同宣言発表したもののイタリア挑発止まず同年12月エチオピアイタリア相手取って国際連盟理事会提訴したが、解決をみなかった。1935年2月イタリアエチオピア国境に3万人師団動員エチオピア政府再度国際連盟提訴し、在伊エチオピア公使戦争覚悟表明した

※この「第一次エチオピア戦争」の解説は、「エチオピア戦争」の解説の一部です。
「第一次エチオピア戦争」を含む「エチオピア戦争」の記事については、「エチオピア戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第一次エチオピア戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第一次エチオピア戦争」の関連用語

第一次エチオピア戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第一次エチオピア戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第一次エチオピア戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオレステ・バラティエリ (改訂履歴)、エチオピアの歴史 (改訂履歴)、エチオピア軍事史 (改訂履歴)、エチオピア戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS