いと‐せんそう〔‐センサウ〕【伊土戦争】
読み方:いとせんそう
伊土戦争
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伊土戦争(いとせんそう、伊: Guerra italo-turca、トルコ語: Trablusgarp Savaşı (トリポリの戦い)、英: Italo-Turkish War, Turco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争。戦争はイタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でトリポリタニア、フェザーン、キレナイカを獲得した。占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア州として一括的に統治する事とした(リビア保護領)。イタリア=トルコ戦争とも。
注釈
出典
- ^ a b c d e f Italy. Esercito. Corpo di stato maggiore (1914). The Italo-Turkish War (1911-12). Franklin Hudson Publishing Company
- ^ Youssef Aboul-Enein and David Trandberg (2012年3月6日). “Arab Thoughts on the Italian Colonial Wars in Libya”. Small Wars Journal. 2013年11月14日閲覧。
- ^ a b c The History of the Italian-Turkish War, William Henry Beehler, page 14
- ^ a b World War I: A Student Encyclopedia, Spencer C. Tucker,Priscilla Mary Roberts, page 946
- ^ Emigrant nation: the making of Italy abroad, Mark I. Choate, Harvard University Press, 2008, ISBN 0-674-02784-1, page 176.
- ^ a b Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts: World War I: A Student Encyclopedia, ABC-CLIO, 2005, ISBN 1-85109-879-8, page 946.
- ^ Boris Zesarewitsch Urlanis: Bilanz der Kriege, Berlin 1965, page 123
- ^ Treaty of Ouchy (1912), also known as the First Treaty of Lausanne
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- ^ Crow, Encyclopedia of Armored Cars, pg.104.
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- ^ "1911–1912 Turco-Italian War and Captain Mustafa Kemal". Ministry of Culture of Turkey, edited by Turkish Armed Forces-Division of History and Strategical Studies, pages 62–65, Ankara, 1985.
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- ^ Clark, The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914, pages 243-244.
伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:33 UTC 版)
「メフメト5世」の記事における「伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)」の解説
このようななかで、1911年、イタリアとの間で戦争が発生する(伊土戦争)。イタリアは北アフリカのトリポリ・キレナイカを攻撃し、沿岸部の都市を早々に占領する。 オスマン軍は内陸部に移り、現地の有力者らと抵抗を続けたが、イタリアにエーゲ海のロドス島なども占領されたことから1912年12月に休戦し、トリポリ、キレナイカなどのこれらの地域を割譲せざるを得なくなった。 イタリアは戦後、トリポリなどの地域を古名にちなんで「リビア」と改称し、同地における植民地経営に乗り出すことになる。
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伊土戦争
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詳細は「伊土戦争」を参照 オスマン帝国の再支配下では部族の自治が認められると共に、1837年に創立されたイスラーム復古主義的なサヌーシー教団が勢力を増した。しかし1908年の青年トルコ革命後、オスマン政府は方針を一変させサヌーシー教団は弾圧の対象となった。リビアを繋ぎ止めようとするオスマン帝国の努力の裏で、1861年にリソルジメントを達成したサヴォイア朝イタリア王国がこの地への進出を狙い始める。 1911年、列強の植民地獲得競争に遅れをとっていたイタリアはリビア侵略を目論み、オスマン帝国に宣戦布告、伊土戦争が勃発した。イタリア軍は海上兵力の優位を生かして沿岸部の諸都市を征服し、エンヴェル・パシャとムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)に率いられたオスマン軍とサヌーシー教団に率いられた民兵は内陸部に逃れた。戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、1912年にローザンヌ条約が結ばれた。条約に基づいてオスマン軍の撤退が決定し、イタリアはオスマン帝国からトリポリタニアとキレナイカを獲得した。
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伊土戦争
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「ベネデット・ブリン (戦艦)」の記事における「伊土戦争」の解説
1911年9月29日、リビア獲得を目的としてイタリアはオスマン帝国に宣戦布告し、伊土戦争が勃発。開戦時は「ベネデット・ブリン」は第2艦隊第3戦隊に所属しており、同艦隊のFarvelli中将の旗艦であった。トリポリでは降伏の要求に対する応答がなかったことから10月3日には艦砲射撃が実施され、「ベネデット・ブリン」も参加した。艦砲射撃は翌日も実行された。オスマン帝国側の反撃によるイタリア艦隊の被害はなかった。10月5日、トリポリは占領された。 1912年4月13日、「ベネデット・ブリン」を含む第2艦隊はトリポリおよびアウグスタより出航し、エーゲ海へ向かった。4月17日、スタンパリア島で第2艦隊は第1艦隊と合同。その後は第3戦隊は他とは別に行動した。「ベネデット・ブリン」と「レジナ・マルゲリータ」はそれぞれ水雷艇1隻を伴ってロドス島・マルマリス間のケーブル切断を行った。第2戦隊は7月はイタリア本土で修理や砲身の交換を行っていた。また、1912年には「ベネデット・ブリン」には3インチ砲が4門追加装備されている。
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伊土戦争
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「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の記事における「伊土戦争」の解説
1911年9月29日にイタリアがリビアに侵攻したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ(トルコ語版)、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイ(トルコ語版)ら統一と進歩協会の志願者たちとともにトリポリタニアに赴くことになった。1911年11月27日、船上で少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」としてアレクサンドリアを経由して陸路ベンガジに向かった。12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官となったが、1912年1月16日、左目を負傷し、1か月ほど治療を受けた後、1912年3月11日にデルネ地区司令官に任命されゲリラ戦を展開した。
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