伊土戦争とは? わかりやすく解説

いと‐せんそう〔‐センサウ〕【伊土戦争】

読み方:いとせんそう

イタリアトルコ戦争


伊土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 13:26 UTC 版)

伊土戦争(いとせんそう、: Guerra italo-turcaトルコ語: Trablusgarp Savaşı (トリポリの戦い)、: Italo-Turkish War, Turco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国オスマン帝国の間で戦われた戦争。戦争はイタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でトリポリタニアフェザーンキレナイカを獲得した。占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア州として一括的に統治する事とした(リビア保護領)。イタリア=トルコ戦争とも。


注釈

  1. ^ コレラ流行による病死者1948名を含む[5]
  2. ^ 捕虜や反乱協力者とされた1万名に対する処刑も含む[6]

出典

  1. ^ a b c d e f Italy. Esercito. Corpo di stato maggiore (1914). The Italo-Turkish War (1911-12). Franklin Hudson Publishing Company 
  2. ^ Youssef Aboul-Enein and David Trandberg (2012年3月6日). “Arab Thoughts on the Italian Colonial Wars in Libya”. Small Wars Journal. 2013年11月14日閲覧。
  3. ^ a b c The History of the Italian-Turkish War, William Henry Beehler, page 14
  4. ^ a b World War I: A Student Encyclopedia, Spencer C. Tucker,Priscilla Mary Roberts, page 946
  5. ^ Emigrant nation: the making of Italy abroad, Mark I. Choate, Harvard University Press, 2008, ISBN 0-674-02784-1, page 176.
  6. ^ a b Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts: World War I: A Student Encyclopedia, ABC-CLIO, 2005, ISBN 1-85109-879-8, page 946.
  7. ^ Boris Zesarewitsch Urlanis: Bilanz der Kriege, Berlin 1965, page 123
  8. ^ Treaty of Ouchy (1912), also known as the First Treaty of Lausanne
  9. ^ Full text of the Treaty of Lausanne (1923)
  10. ^ U.S. Centennial of Flight Commission: Aviation at the Start of the First World War Archived 2012年10月9日, at the Wayback Machine.
  11. ^ Alliance System / System of alliances”. thecorner.org. 2007年4月3日閲覧。
  12. ^ Del Boca, Gil italiani in Libia. Tripoli bel suol d'amore 1860-1922, pg.65.
  13. ^ M. Taylan Sorgun, "Bitmeyen Savas", 1972. Memoirs of Halil Pasa
  14. ^ Crow, Encyclopedia of Armored Cars, pg.104.
  15. ^ Biddle, Rhetoric and Reality in Air Warfare, pg.19.
  16. ^ "1911–1912 Turco-Italian War and Captain Mustafa Kemal". Ministry of Culture of Turkey, edited by Turkish Armed Forces-Division of History and Strategical Studies, pages 62–65, Ankara, 1985.
  17. ^ Ungari, The Libyan War 1911-1912, pages 109-110.
  18. ^ Clark, The Sleepwalkers: How Europe Went to War in 1914, pages 243-244.


「伊土戦争」の続きの解説一覧

伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:33 UTC 版)

メフメト5世」の記事における「伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)」の解説

このようななかで、1911年イタリアとの間で戦争発生する(伊土戦争)。イタリア北アフリカのトリポリ・キレナイカを攻撃し沿岸部都市早々に占領するオスマン軍内陸部移り現地有力者らと抵抗続けたが、イタリアエーゲ海ロドス島なども占領されたことから1912年12月休戦しトリポリキレナイカなどのこれらの地域割譲せざるを得なくなったイタリア戦後トリポリなどの地域古名にちなんで「リビア」と改称し同地における植民地経営乗り出すことになる。

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「伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)」を含む「メフメト5世」の記事については、「メフメト5世」の概要を参照ください。


伊土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 07:16 UTC 版)

リビアの歴史」の記事における「伊土戦争」の解説

詳細は「伊土戦争」を参照 オスマン帝国の再支配下では部族自治認められると共に1837年創立されイスラーム復古主義的なサヌーシー教団勢力増した。しかし1908年青年トルコ革命後、オスマン政府方針一変させサヌーシー教団弾圧対象となったリビア繋ぎ止めようとするオスマン帝国努力の裏で、1861年リソルジメント達成したサヴォイア朝イタリア王国がこの地への進出狙い始める。 1911年列強植民地獲得競争に遅れをとっていイタリアリビア侵略目論み、オスマン帝国宣戦布告、伊土戦争が勃発したイタリア軍海上兵力優位生かして沿岸部の諸都市征服しエンヴェル・パシャムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)に率いられオスマン軍サヌーシー教団率いられ民兵内陸部逃れた戦争オスマン帝国敗北終わり1912年ローザンヌ条約結ばれた条約基づいてオスマン軍撤退決定しイタリアオスマン帝国からトリポリタニアキレナイカ獲得した

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伊土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 17:37 UTC 版)

ベネデット・ブリン (戦艦)」の記事における「伊土戦争」の解説

1911年9月29日リビア獲得目的としてイタリアオスマン帝国宣戦布告し、伊土戦争が勃発開戦時は「ベネデット・ブリン」は第2艦隊第3戦隊所属しており、同艦隊のFarvelli中将旗艦であったトリポリでは降伏要求対す応答がなかったことから10月3日には艦砲射撃実施され、「ベネデット・ブリン」も参加した艦砲射撃翌日実行された。オスマン帝国側の反撃によるイタリア艦隊被害はなかった。10月5日トリポリ占領された。 1912年4月13日、「ベネデット・ブリン」を含む第2艦隊トリポリおよびアウグスタより出航しエーゲ海向かった4月17日スタンパリア島第2艦隊第1艦隊合同その後第3戦隊は他とは別に行動した。「ベネデット・ブリン」と「レジナ・マルゲリータ」はそれぞれ水雷艇1隻を伴ってロドス島マルマリス間のケーブル切断行った。第2戦隊7月イタリア本土修理砲身交換行っていた。また、1912年には「ベネデット・ブリン」には3インチ砲が4門追加装備されている。

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伊土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:43 UTC 版)

ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の記事における「伊土戦争」の解説

1911年9月29日イタリアリビア侵攻したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ(トルコ語版)、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイ(トルコ語版)ら統一進歩協会志願者たちとともにトリポリタニア赴くことになった1911年11月27日船上少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」としてアレクサンドリア経由して陸路ベンガジ向かった12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部義勇部隊司令官となったが、1912年1月16日、左目を負傷し1か月ほど治療受けた後、1912年3月11日にデルネ地区司令官任命されゲリラ戦展開した

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