第一次エチオピア戦争までとは? わかりやすく解説

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第一次エチオピア戦争まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 02:07 UTC 版)

イタリア領東アフリカ」の記事における「第一次エチオピア戦争まで」の解説

エチオピア地方ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路である紅海南部面しているため、インドアジア貿易に関する重要拠点となる土地であった1880年代始まったアフリカ分割においてイギリス植民地化進めたフランスアフリカ大陸南北伸びるイギリス植民地分断内陸部石炭興味示していた。イタリア植民地獲得出遅れており、北アフリカ空白地帯への進出獲得乗り出していた。 イタリア1870年代紅海南部面したエリトリア民間会社通じて買収し事実上植民地化行った。後にヨハンネス4世対立したイタリアヨハンネス4世後継指名したヨハンネス義妹の子マンガッシャと対立したショアの王メネリク2世支援し内戦勝利したメネリクの即位後、1889年ウッチャリ条約を結び、翌年正式に植民地化した。エリトリアエチオピアの北に接す地域である。1889年にはエチオピア南東接すイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)を獲得したエチオピアの北と南東獲得後、南(ケニア)、西(スーダン)、東(イギリス領ソマリランド、現ソマリア北部)を植民地化していたイギリス支援を受け、1896年に、エチオピア保護領化開始する。ところが、紅海出口であるジブチ獲得しエチオピア首都アディスアベバとの鉄道敷設していたフランスエチオピア支援したこともあり、1896年3月1日エリトリア国境にほど近いアドワの戦い大敗喫する。これを第一次エチオピア戦争という。このとき軍事的に勝利したため、エチオピアリベリア並んでアフリカ大陸数少ない独立国として残った

※この「第一次エチオピア戦争まで」の解説は、「イタリア領東アフリカ」の解説の一部です。
「第一次エチオピア戦争まで」を含む「イタリア領東アフリカ」の記事については、「イタリア領東アフリカ」の概要を参照ください。

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