イタリア統一と植民地戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)
「イタリアの軍事史」の記事における「イタリア統一と植民地戦争」の解説
詳細は「リソルジメント」、「エリトリア戦争」、「第一次エチオピア戦争」、および「伊土戦争」を参照 近代に入って、独立を維持していた北西部のサヴォイア家のサルデーニャ王国(ピエモンテ王国)は、クリミア戦争への参加などで国際的地位を高め、最終的にフランス帝国との同盟によって北イタリアを統一、またローマ以外の教皇領も占領している。次いでジュゼッペ・ガリバルディ率いる義勇軍(赤シャツ隊、千人隊)の活躍により両シチリア王国(ナポリ・トリナクリア)も滅ぼされ、サルデーニャ王国により大部分の統一が果たされた(イタリア王国)。統一戦争(リソルジメント)の始まりと終わりについては論者によって違いがあるが、概ね1815年のウィーン体制確立から1871年のローマ占領までであると考えられている。しかし一部の領土は未回収のイタリアとして残り、これらを統合しようとするイリデンティズムという思想が形勢される。またサンマリノはこの戦争での功績が認められ、独立を維持した。 統一戦争を終えた後、植民地支配の後発国であるイタリア王国は積極的に植民地戦争に臨み、まずアフリカで唯一独立を維持していたエチオピア帝国に攻撃を仕掛け、エリトリア戦争で勝利を収めた。次にエチオピア帝国内の内乱を利用してエチオピア全体の傀儡化を進めるが、フランスの支援を受けたエチオピア軍に苦戦を強いられ、一旦植民地戦争は頓挫した(第一次エチオピア戦争)。 1911年に再度の植民地拡大が図られ、オスマン帝国との間で北アフリカを巡る戦いが発生した(伊土戦争)。海軍の優勢によってイタリア海軍はオスマン海軍を圧倒し、また北アフリカの主要都市を占領してリビアを割譲させた。この戦いは初めて空軍が戦場で活躍した戦争としても著名である他、イタリアの優勢はバルカン戦争の引き金としてオスマン帝国の本格的な凋落に繋がった。
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