イタリア統一と教皇領の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「イタリア統一と教皇領の消滅」の解説
「イタリア統一運動」、「ローマ問題」、および「教皇領」を参照 1848年初頭、ローマの司祭アンブロゾーリがユダヤ人の解放を訴え、教皇ピウス9世が1848年4月にゲットーの壁を取り壊した。しかし、11月にローマ革命が起ると、教皇はガエータに避難した。1849年7月にナポレオン3世のフランスがローマ共和国革命政府を制圧すると、教皇は1850年にローマに戻るが以後はユダヤ人対策を差し控えるようになった。 1858年、イタリアのボローニャでユダヤ人の6歳の少年エドガルド・モルターラが異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てられ司祭となった。カトリック教徒の家政婦が極秘に洗礼を受けさせていたためであった。ヨーロッパ全土のユダヤ人が事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した。教皇は、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心でしかないと述べて和解した。1864年にはこれに似たフォルトゥナート・コーヘン少年洗礼事件も起きた。 1859年、オーストリア帝国からのイタリア独立戦争で、サルデーニャ王国はナポレオン3世と同盟し、ソルフェリーノの戦いでオーストリア軍に勝利した。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡となり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、ナポレオン3世はサルデーニャ王国に黙ってオーストリアとヴィッラフランカで単独で講和して、オーストリアのヴェネト州保持、トスカーナなど亡命君主の復位も約束した。サルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認した。1860年、ナポレオン3世はサヴォイとニースのフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した。1860年4月、共和主義者ガリバルディ率いる義勇軍赤シャツ隊が両シチリア王国を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊に先んじて教皇領とナポリ王国軍を撃破した。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、両者は並んでローマに入城した。1861年、ローマとヴェネト州をのぞくイタリア王国がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王の下に成立した。1866年、プロイセン・オーストリア戦争でプロイセンと同盟を結んだイタリア王国はヴェネト州を回収できた。 1870年、プロイセン=フランス戦争で在ローマフランス軍が呼び戻され、さらにセダンの戦いでフランスが降伏すると、イタリア王国は簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した。教皇は教皇権の廃棄に関与するすべてのものを破門にすると宣告したが住民投票でローマ併合が可決し、翌1871年5月にイタリア王国は教皇保障法を制定しイタリア統一を完成させ、これにより教皇領は消滅した。
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