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オーストリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/18 17:30 UTC 版)

オーストリア帝国
Kaisertum Österreich
神聖ローマ帝国 1804年 - 1867年 オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリアの国旗 オーストリアの国章
国旗 国章
国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
オーストリアの位置
公用語 ドイツ語
首都 ウィーン
皇帝
1804年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年 フェルディナント1世
1848年 - 1867年 フランツ・ヨーゼフ1世
宰相
1821年 - 1848年 クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ
変遷
成立 1804年
アウスグライヒ 1867年
通貨 マリア・テレジア・ターラー

オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組までオーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」という。)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。

前身の、神聖ローマ帝国内外の王国・領邦の連合国家だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。

目次

概要

18世紀オーストリア継承戦争七年戦争によって神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであったが、フランス革命を受けたナポレオン帝政の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がる支配領域(ハプスブルク君主国)をもって帝国を形成した。

この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動き、1866年普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最終的にドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するためにオーストリア=ハンガリー二重帝国が発足した。

領域

主要年表

オーストリア帝国のデータ
国旗 Flag of the Habsburg Monarchy.svg
王家 ハプスブルク家
首都 ウィーン
人口 約4000万人 (19世紀中頃)
成立 1806年
消滅 1867年
形態 帝国
民族構成 ドイツ人: 24%
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
公用語 ドイツ語
宗教 カトリック正教イスラム教



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