イタリア統一運動
イタリア統一
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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」の記事における「イタリア統一」の解説
「第二次イタリア統一戦争」、「en:Treaty of Turin (1860)」、および「赤シャツ隊」も参照 1859年、万全の体勢を整えたサルデーニャ軍は遂に11年前の復讐を果たすべく行動を開始、総動員令によってオーストリアを挑発し、相手にも総動員令を発動させることに成功した。 開戦時点でサルデーニャ軍7万名に対してオーストリア軍は24万名を越えており、フランスが先の密約に従って15万名の援軍を送っても、まだ両軍を上回る戦力を有していた。しかし、予想していなかった増援に混乱するオーストリア軍は、モンテベッロの戦い (en) で数的有利を生かせずに敗退、更にガリバルディら共和派の義勇兵がアルプス猟兵隊 (en) を結成すると、オーストリア軍はヴァレーゼの戦い (en) で彼らにも敗れ去った。勢いに乗るサルデーニャ・フランス連合軍はオーストリア軍をサルデーニャ国境から追い払うと、そのままロンバルディア平定を賭けた戦いに臨んだ。 ソルフェリーノの戦い (en) で、サルデーニャ・フランス連合軍は激戦の末にオーストリア軍を破り、オーストリア軍はロンバルディアから敗走していった。歓喜に沸くサルデーニャ軍であったが、予想以上の戦果と自軍損害に慄いたフランス皇帝ナポレオン3世は、ロンバルディアのみをサルデーニャへ割譲する形で戦いを終らせようと単独交渉を始めた。1860年3月、やむなくヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノ条約 (en) を締結、フランスを経由する形でロンバルディア領有をオーストリアに認めさせるのを優先した。しかしその上で、協定違反としてニース・サヴォワの割譲をフランスに取り下げさせることにも成功、またこのフランスの裏切りとも呼べる行為によってイタリア統一の機運が高まり、それまでサルデーニャ王国へ反抗的な態度を表していた中部のパルマ公国・モデナ公国・トスカーナ大公国が住民投票の結果サルデーニャ王国への合流を決定した。サルデーニャ王国は教皇領レガツィオーネ地区を占領して先の3公国と合わせて併合し中部イタリア連邦 (en) を樹立させるなど、対価を獲得した。 後にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はニース・サヴォワの割譲履行を条件に、中部イタリア連邦の併合をフランスに承認させ、中部イタリアの大部分を併合した。ヴェネト領有はならなかったものの、サルデーニャ王国は大きく領土を拡大、イタリア地方の3分の1を支配する大国として存在感を増していった。イタリア統一は目前に迫りつつあったが、教皇領の残余と両シチリア王国に対する処遇を巡って国内は対立した。 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が結論を出す前に行動を起こしたのがガリバルディであった。彼はアルプス猟兵隊の一部を再編して赤シャツ隊を創設すると、両シチリアの農民反乱軍を支援するべく、シチリア島へ密航した。現地で駐留していた両シチリア軍を追い払い、農民の反乱軍を纏め上げたガリバルディは、シチリア全土を占領して「シチリアの護民官」への就任を宣言した。そのまま本土部分へ乗り込んだガリバルディ軍が王都ナポリに入城する勢いを見せると、共和勢力の拡大を恐れたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は自らも両シチリアへの進軍を決意した。その過程で、教皇領はローマを残して全て没収したため、教皇からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は破門処分を受けたが、今や教会の破門に情勢を動かすだけの力は無かった。 教皇領接収を終えると両シチリア軍との決戦に臨み、ガリバルディ軍と共にこれを撃破して、両シチリア王国を滅ぼした。事実上、ヴェネト以外の全ての地域がイタリア人支配者の下に置かれたことになるが、今度は共和派と王党派という対立の再燃が危惧された。サルデーニャ軍とガリバルディ軍が睨みあう中、テアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はガリバルディとの会見に応じた。ガリバルディは謁見の場で「ここにイタリアの王がおられるのだ!」と宣言すると、全ての領土をサルデーニャ王国に献上した(テアーノの握手(イタリア語版))。ガリバルディの決断によって最悪の事態は回避され、ヴェネトとローマを除くイタリアの大部分が統合された。 1861年2月18日、サルデーニャ王国の王都トリノで第1回イタリア国民議会が開かれ、一堂に会した有力諸侯や政治家は、全会一致でヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア王への即位を承認した(イタリア王国)。王国の首都は投票によりフィレンツェとされた。
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イタリア統一
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「レッジョ・ディ・カラブリア」の記事における「イタリア統一」の解説
1860年8月21日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊と同志たちは、レッジョの「大聖堂広場の戦い」 (it:Battaglia di Piazza Duomo) で両シチリア王国軍に勝利した。レッジョ市長のブルーノ・アントニオ・ロッシ(Bruno Antonio Rossi)は、フランチェスコ2世による統治の終焉と、ガリバルディによる独裁を宣言することとなった。 イタリア統一を果たしたイタリア王国のもとで、市名は「レッジョ・ディ・カラブリア」に改められた。しかし重い債務に苦しんでいた王国は、国庫を潤すために南イタリアの産業の収奪を行い衰退させた。影響を被った地元産業としては、林業・鉱業・造船業・養蚕業・絹織物業などが挙げられる。
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イタリア統一
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オーストリアとクロアチアの軍が1848年までピアチェンツァを占領した。住民投票が、リソルジメントに加わる都市となるきっかけをつくった。総投票37,585票のうち、37,089票が統合に賛成したのである。ピアチェンツァは、王家により『イタリア統一化の最初の産物』(Primogenita dell'Unità di Italia)を宣言された。ピアチェンツァ人は、南部イタリアの独立闘争を戦うため出兵したジュゼッペ・ガリバルディ軍の一団に加わっていた。 1865年6月、最初の鉄道橋が開通した。1891年、最初の労働者会議がピアチェンツァで開催された。 第二次世界大戦中、ピアチェンツァは連合国側の激しい爆撃を受けた。ポー川に架かる重要な鉄道橋、鉄道駅、歴史地区が破壊された。丘陵地帯とアペニン山脈には、パルチザンが活動していた。1945年4月25日に戦争が終わると、イタリア抵抗運動による全パルチザン暴動が勃発、4月29日には市にブラジル遠征軍 (en) が到着した。 1996年、オスカル・ルイージ・スカルファロ大統領は、ピアチェンツァに戦争時の勇気を讃える金メダルを贈った。
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イタリア統一
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1859年、密約が漏れ、緊張の高まる中でオーストリアは最後通牒を発し、第二次イタリア独立戦争が始まった。カヴールは国王の一般人との再婚に反対し、国王の直接の戦争指揮を妨げて対立し、辞任を迫られた。だが内外からの信望の高さにより、国王は再任を認めざるを得なかった。 フランスはイタリアと共同でオーストリアと戦い、北イタリアのうちロンバルディアはサルデーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトはオーストリアに留まった。フランス軍の多大な犠牲とフランスの勢力拡大を恐れるイギリスの干渉により、ナポレオン3世は同年7月オーストリアと突如ヴィッラフランカの和議を結び、カヴールを裏切った。これに対してカヴールは抗議の辞任をしたが、翌1860年1月に首相に復帰した。ハプスブルク家が支配していたトスカーナやブルボン家支配のエミリアで住民投票を実施し、平和裏にイタリア中部のサルデーニャ王国併合を成功させた。これを黙認したフランスに報いるため、密約に基づいてサヴォアとニースを割譲した。 ニース出身のガリバルディは故郷の割譲に激怒し、共和派も加えた義勇軍を率いてブルボン家の支配する南部の両シチリア王国を倒し、カヴールもこれを黙認しながら共和派の勢いの制御に努めた。義勇軍の進撃により、住民投票による平和裏なイタリア中部の併合が妨げられること、ローマに駐留するフランス軍と衝突することを恐れたカヴールは、国王率いるサルデーニャ軍を送って義勇軍のローマ進撃を阻止した。民主主義者でありながら君主制支持者でもあったガリバルディは、敬愛するヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に両シチリア王国を献上し、ローマ・ヴェネトを除くイタリア統一がほぼ完成した。 この間カヴールは首相のほか、外相・内相・陸軍相・海軍相を兼ね、オーストリアとの戦争のみならず、フランス、イギリス、プロシア、ロシアによる干渉、国内では国王、マッツィーニ率いる共和派、ガリバルディ、ローマ教皇などとの政争を勝ち抜いた。1861年、統一議会が開かれ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は統一イタリア王に推戴され、法律、度量衡、通貨などが統一された。また、カヴールも初代イタリア王国首相に任じられた。
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