イタリア統一とは? わかりやすく解説

イタリア統一運動

(イタリア統一 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/16 10:13 UTC 版)

イタリア統一運動(イタリアとういつうんどう、イタリア語:Risorgimento リソルジメント[1])は、19世紀1815年 - 1871年)に起こった、イタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。




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イタリア統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 04:14 UTC 版)

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」の記事における「イタリア統一」の解説

第二次イタリア統一戦争」、「en:Treaty of Turin (1860)」、および「赤シャツ隊」も参照 1859年万全体勢整えたサルデーニャ軍は遂に11年前復讐を果たすべく行動開始総動員令によってオーストリア挑発し、相手にも総動員令を発動させることに成功した開戦時点でサルデーニャ軍7に対してオーストリア軍24名を越えており、フランス先の密約に従って15名の援軍送っても、まだ両軍上回る戦力有していた。しかし、予想していなかった増援混乱するオーストリア軍は、モンテベッロの戦い (en) で数的有利を生かせずに敗退、更にガリバルディ共和派義勇兵アルプス猟兵隊 (en) を結成すると、オーストリア軍ヴァレーゼ戦い (en) で彼らにも敗れ去った勢いに乗るサルデーニャ・フランス連合軍オーストリア軍サルデーニャ国境から追い払うと、そのままロンバルディア平定賭けた戦い臨んだソルフェリーノの戦い (en) で、サルデーニャ・フランス連合軍激戦の末にオーストリア軍破りオーストリア軍ロンバルディアから敗走していった歓喜に沸くサルデーニャであったが、予想上の戦果自軍損害に慄いたフランス皇帝ナポレオン3世は、ロンバルディアのみをサルデーニャ割譲する形で戦いを終らせようと単独交渉始めた1860年3月やむなくヴィットーリオ・エマヌエーレ2世トリノ条約 (en) を締結フランス経由する形でロンバルディア領有オーストリア認めさせるのを優先した。しかしその上で協定違反としてニース・サヴォワの割譲フランス取り下げさせることにも成功、またこのフランスの裏切りとも呼べ行為によってイタリア統一の機運高まりそれまでサルデーニャ王国反抗的な態度表していた中部パルマ公国モデナ公国トスカーナ大公国住民投票の結果サルデーニャ王国への合流決定したサルデーニャ王国教皇領レガツィオーネ地区占領して先の3公国合わせて併合し中部イタリア連邦 (en) を樹立させるなど、対価獲得した。 後にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はニース・サヴォワの割譲履行条件に、中部イタリア連邦併合フランス承認させ、中部イタリア大部分併合したヴェネト領有はならなかったものの、サルデーニャ王国大きく領土拡大イタリア地方3分の1支配する大国として存在感増していった。イタリア統一は目前迫りつつあったが、教皇領残余両シチリア王国対す処遇巡って国内対立したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世結論を出す前に行動起こしたのがガリバルディであった。彼はアルプス猟兵隊の一部再編し赤シャツ隊創設すると、両シチリア農民反乱軍を支援するべく、シチリア島密航した現地駐留していた両シチリア軍を追い払い農民反乱軍纏め上げたガリバルディは、シチリア全土占領してシチリア護民官」への就任宣言したそのまま本土部分乗り込んだガリバルディ軍が王都ナポリ入城する勢い見せると、共和勢力の拡大恐れたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は自らも両シチリアへの進軍決意した。その過程で、教皇領ローマ残して全て没収したため、教皇からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世破門処分受けたが、今や教会破門情勢を動かすだけの力は無かった教皇領接収終えると両シチリア軍との決戦臨みガリバルディと共にこれを撃破して、両シチリア王国滅ぼした事実上ヴェネト以外の全ての地域イタリア人支配者の下に置かれたことになるが、今度共和派王党派という対立再燃危惧された。サルデーニャ軍とガリバルディ軍が睨みあう中、テアーノヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ガリバルディとの会見応じたガリバルディ謁見の場で「ここにイタリアの王がおられるのだ!」と宣言すると、全ての領土サルデーニャ王国献上したテアーノの握手イタリア語版))。ガリバルディ決断によって最悪事態回避されヴェネトローマを除くイタリア大部分統合された。 1861年2月18日サルデーニャ王国王都トリノ第1回イタリア国議会開かれ一堂会した有力諸侯政治家は、全会一致ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王への即位承認したイタリア王国)。王国首都投票によりフィレンツェとされた。

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イタリア統一

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レッジョ・ディ・カラブリア」の記事における「イタリア統一」の解説

1860年8月21日ジュゼッペ・ガリバルディ率い千人隊同志たちは、レッジョの「大聖堂広場戦い」 (it:Battaglia di Piazza Duomo) で両シチリア王国軍に勝利したレッジョ市長のブルーノ・アントニオ・ロッシ(Bruno Antonio Rossi)は、フランチェスコ2世による統治終焉と、ガリバルディによる独裁宣言することとなった。 イタリア統一を果たしたイタリア王国のもとで、市名は「レッジョ・ディ・カラブリア」に改められた。しかし重い債務苦しんでいた王国は、国庫潤すために南イタリア産業収奪行い衰退させた。影響被った地元産業としては、林業鉱業造船業養蚕業絹織物業などが挙げられる

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イタリア統一

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ピアチェンツァ」の記事における「イタリア統一」の解説

オーストリアクロアチアの軍が1848年までピアチェンツァ占領した住民投票が、リソルジメントに加わる都市となるきっかけつくった。総投票37,585票のうち、37,089票が統合賛成したのであるピアチェンツァは、王家により『イタリア統一化の最初産物』(Primogenita dell'Unità di Italia)を宣言された。ピアチェンツァ人は、南部イタリア独立闘争を戦うため出兵したジュゼッペ・ガリバルディ軍の一団加わっていた。 1865年6月最初鉄道橋開通した1891年最初労働者会議ピアチェンツァ開催された。 第二次世界大戦中ピアチェンツァ連合国側激し爆撃受けたポー川架かる重要な鉄道橋鉄道駅歴史地区破壊された。丘陵地帯アペニン山脈には、パルチザン活動していた。1945年4月25日戦争が終わると、イタリア抵抗運動による全パルチザン暴動勃発4月29日には市にブラジル遠征軍 (en) が到着した1996年オスカル・ルイージ・スカルファロ大統領は、ピアチェンツァ戦争時勇気讃える金メダル贈った

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イタリア統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:06 UTC 版)

カミッロ・カヴール」の記事における「イタリア統一」の解説

1859年密約漏れ緊張の高まる中でオーストリア最後通牒発し第二次イタリア独立戦争始まったカヴール国王一般人との再婚反対し、国王直接戦争指揮妨げて対立し辞任迫られた。だが内外からの信望の高さにより、国王再任認めざるを得なかった。 フランスイタリア共同オーストリア戦い北イタリアのうちロンバルディアサルデーニャ王国の手中に落ちたが、ヴェネトオーストリアに留まった。フランス軍多大な犠牲フランス勢力拡大恐れイギリス干渉により、ナポレオン3世同年7月オーストリア突如ヴィッラフランカの和議を結び、カヴール裏切った。これに対してカヴール抗議辞任をしたが、翌1860年1月首相に復帰したハプスブルク家支配していたトスカーナブルボン家支配エミリア住民投票実施し平和裏イタリア中部サルデーニャ王国併合成功させた。これを黙認したフランス報いるため、密約基づいてサヴォアニース割譲したニース出身ガリバルディ故郷割譲激怒し共和派加えた義勇軍率いてブルボン家支配する南部両シチリア王国倒しカヴールもこれを黙認しながら共和派勢い制御努めた義勇軍進撃により、住民投票による平和裏イタリア中部併合妨げられること、ローマ駐留するフランス軍衝突することを恐れたカヴールは、国王率いサルデーニャ軍を送って義勇軍ローマ進撃阻止した民主主義者でありながら君主制支持者でもあったガリバルディは、敬愛するヴィットーリオ・エマヌエーレ2世両シチリア王国献上し、ローマ・ヴェネトを除くイタリア統一がほぼ完成したこの間カヴール首相のほか、外相内相陸軍相・海軍相兼ねオーストリアとの戦争のみならずフランスイギリスプロシアロシアによる干渉国内では国王マッツィーニ率い共和派ガリバルディローマ教皇などとの政争勝ち抜いた1861年統一議会開かれヴィットーリオ・エマヌエーレ2世統一イタリア王推戴され法律度量衡通貨などが統一された。また、カヴール初代イタリア王国首相に任じられた。

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