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サルデーニャ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/22 12:58 UTC 版)

サルデーニャ王国
Regno di Sardegna
サヴォイア公国 1720年 - 1861年3月17日 イタリア王国
サルデーニャの国旗 サルデーニャの国章
(国旗) (国章)
サルデーニャの位置
1839年のサルデーニャ王国
公用語 イタリア語
フランス語
ピエモンテ語
オック語
首都 カリャリ(名目上)
トリノ(事実上)
国王
1720年 - 1730年 ヴィットーリオ・アメデーオ2世(初代)
1849年 - 1861年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(→イタリア国王へ)
面積
1838年 70,000km²
人口
1838年 4,650,368人
変遷
成立 1720年
リソルジメント(イタリア統一) 1861年3月17日
サルデーニャ王国の領域(1815年)

サルデーニャ王国(Regno di Sardegna)は、イタリアピエモンテサルデーニャ島、及び現フランス領のサヴォワニースを主要な領土とした王国である。

サヴォイアから興ったサヴォイア公国を起源とする。ピエモンテのトリノを首都としたことから、ピエモンテ王国とも呼ばれる。イタリア統一運動(リソルジメント)において中核となり、イタリア王国の前身となった。

ただし、サルデーニャはスペイン統治時代以前から名目上は「王国」であったが、実態はスペインの植民地であった。

目次

歴史

東ローマ帝国の支配が名目化した後、サルデーニャにはカリャリ、トッレス、ガッルーラ、アルボーレアの4つの「裁判区」(giudici)と呼ばれる自治区が形成されるが、これらを治めた「裁判官」(giudice)の中には、神聖ローマ皇帝から「サルデーニャ王」として承認される者もいた。11世紀以降、サルデーニャにピサジェノヴァの勢力が侵入し、両市による植民化が進む。

1297年ローマ教皇ボニファティウス8世は、アラゴンハイメ2世に対して、シチリア王国に関する権利を放棄してアンジュー家に返還するよう迫ったが、その見返りとしてサルデーニャ「王国」をコルシカとともに授封した。この返還はその後、事実上無効化されたが、両島の授封については1302年のカルタベロッタの和約で追認された。

ハイメ2世は1323年からサルデーニャへの侵攻を開始したが、先住民やジェノヴァ人、ピサ人たちの抵抗に遭い、征服は進まなかった。しかし、その後1世紀近くにわたる抗争のうちに、ジェノヴァやピサの勢力は衰退し、アラゴン=カタルーニャ連合王国による支配が確立していった(コルシカはジェノヴァの勢力下にとどまった)。以後、サルデーニャは名目上アラゴン連合王国の一王国として、実態はカタルーニャ人の植民地として支配され、スペイン王国の成立後もこの状況が続いた。

1720年サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は、スペイン継承戦争の際に獲得したシチリア島オーストリアに割譲する代償としてサルデーニャ島を領有し、サルデーニャ王国を成立させた。

フランス革命戦争に際しては、フランス革命政府から反オーストリア同盟を締結する提案を受けたが、代償としてサヴォワニースの割譲を要求されたため、1792年9月より同盟を拒否してオーストリア側で参戦した。しかし、まもなくフランス軍に征服され、サヴォワとニースを喪失した。さらに、一時はピエモンテ地方を喪失してサルデーニャ島に拠点を移すことになった。

1815年ナポレオン戦争の終結にともない、ウィーン会議の決定に従って失地回復を果たした。また、この際にジェノヴァを併合した。

1821年3月、フェデラーティを中心とした立憲革命が勃発した。王家の一門貴族であるカルロ・アルベルト(のちに国王となる)の理解を得て立憲制への移行が実現しようとしたが、革命の方針をめぐる内部分裂もあり、オーストリアの軍事干渉を受けて失敗した。

1848年、フランスの二月革命を契機としてヨーロッパ各地で自由主義ナショナリズムが高揚していく中で、カルロ・アルベルト王はオーストリアに宣戦してロンバルディア地方の併合を図った。しかし間もなく敗北し、退位・亡命を余儀なくされた。その後、新王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は首相としてカヴール伯爵カミッロ・ベンソを登用した。

イタリアの多くの国家が1848年の熱狂を経て反動化したのに対し、サルデーニャでは自由主義的な憲法が維持され、教育の充実・工業化の推進・交通網の整備など、一連の近代化政策が推進された。このことはイタリア各地の人々に、立憲君主制国家であるサルデーニャを中心としたイタリア統一への支持を強めさせることになった。

しかし、サルデーニャを強国にするためには、当時の大国と同盟関係を結ぶことが必要であった。その上で、経済的にも豊かなロンバルド=ヴェネト(オーストリア帝国領)を併合することが望まれた。そのため、東方で起こっていたクリミア戦争に参戦し、フランス・イギリスの歓心を得て、イタリア統一に向けて有利な国際関係を構築していった。

1858年、サルデーニャはプロンビエールの密約をフランスと結び、対オーストリア戦争に向けての外交的準備は整った。1859年4月29日よりサルデーニャとオーストリアの戦争が開始され、フランス軍の援助を受けてサン・マルティーノの会戦で勝利を収めた。

カヴール首相。サルデーニャの近代化に尽力。

年表




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