ていこう‐うんどう〔テイカウ‐〕【抵抗運動】
読み方:ていこううんどう
レジスタンス運動
(抵抗運動 から転送)
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レジスタンス運動(レジスタンスうんどう、仏: Résistance、英: Resistance)は、権力者や占領軍に対する抵抗運動を指す用語である[1]。レジスタンス集団(レジスタンスしゅうだん)とも称される。
- ^ a b Alain Rey, fr:Dictionnaire historique de la langue française
- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『レジスタンス-151610』 - コトバンク
- ^ デジタル大辞泉『レジスタンス-151610』 - コトバンク
- ^ a b 世界大百科事典 第2版『レジスタンス-151610』 - コトバンク
- ^ 大辞林 第三版『レジスタンス-151610』 - コトバンク
- 1 レジスタンス運動とは
- 2 レジスタンス運動の概要
- 3 関連項目
抵抗運動
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軍部とESAの活動のため、国民らは沈黙するしか手段はなかった。しかし、ゲオルギオス・パパンドレウ、パナイオティス・カネロプロスらは公然と軍事政権を批判したため、自宅軟禁状態に置かれた。1968年11月1日、パパンドレウが自宅軟禁のまま死去するとアテネの人々はデモを開催し、カネロプロスは演説を行った。1969年になるとカネロプロスはパパンドレウの後任の中央同盟党首イオルギオス・マブロスと協定を結び、民主主義復活を求めることを約束した。 海外ではパリへ亡命したカラマンリスやゲオルギオス・パパンドレウの息子、アンドレアス・パパンドレウや共産主義者のブリラキスらが軍事独裁政権を批判したが、彼らは協調することは消極的であった。 軍事政権がクーデターの際の理由の一つであった共産党も一枚岩ではなかった。共産党は国内派と国外派に分裂しており、さらにその中でも細分化されていたため、共産党員の中には軍事政権のために活動したものも居た。そのため、軍事政権に対して強く反発しているのは王党派である右派や共産党の左派ではなく、中道左派や中道右派らであった。そしてパパドプロス暗殺を試みた者の中で最も真剣に取り組んだ者としてアレクサンドロス・パナグリス中尉が上げられるが、彼はどこの政党にも属していなかった。 1971年9月、ペニシリン発見者アレクサンダー・フレミングの妻でギリシャ人のアマリア・フレミングがパナグリス中尉の脱獄に手を貸そうとしたためにこれを逮捕、16ヶ月の禁錮を宣告した後、イギリスへ追放した。さらには1972年4月にはギリシャ学界における抵抗運動指導者ゲオルギオス・マンガキス教授も逮捕されたが、彼はドイツの大学に籍を置いていた故に西ドイツからの圧力を受けて解放したが、西ドイツ駐ギリシャ大使が「ペルソナ・ノン・グラータ」と宣告され召還・交代する事態にまでなった。
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抵抗運動
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「第766独立歩兵連隊 (朝鮮人民軍)」の記事における「抵抗運動」の解説
詳細は「釜山橋頭堡の戦い」および「杞渓・安康の戦い」を参照 7月17日、人民軍第5師団が盈徳に到達し、大きな抵抗を受ける事もなく市街地まで前進した。しかし占領直後、国連軍による空襲を受けて師団は大打撃を受けた。結果的に市街の守備に当たっていた韓国軍第3師団将兵6,469名の包囲に成功しているが、第5師団および766部隊の戦力も7,500名程度まで減少していた。市街地に立て篭もる韓国軍第3師団を包囲に成功すると、766部隊は第5師団を支援するべく戦力の集結を図った。当時、韓国軍第3師団は北朝鮮の前進を少しでも遅延させるべく市街にて死守に当たる旨の命令を受けていたのである。人民軍を十分に遅延させた後、第3師団は解錠から脱出を図っている。険しい山岳地帯は人民軍の快進撃を支えていた数的・装備的優位性を失わせ、市街の包囲にも綻びを生み出していた。 7月28日、第5師団は依然として第3師団包囲を巡り山岳地での戦いを続けていたが、766部隊は別命を受けて市街側面に当たる真宝へ移動した。しかしこの折に米英海軍による苛烈な艦砲射撃で大きな被害を出し、766部隊はやむを得ず盈徳まで一時的に後退した 。その後、一度は目的地に到達したものの、装甲車まで用いた韓国警察および民兵による激しい抵抗に遭遇し、さらに国連軍の航空支援もこれに加わった。第5師団からの支援は1個連隊のみで、29日には前進を断念し撤退を余儀なくされた。また山岳地帯に展開した韓国軍首都師団は766部隊によるそれ以上の浸透を阻止した。さらに警察部隊なども加えた韓国側戦力は766部隊を孤立させるべく逆襲に転じたのである。この中には、特に766部隊を対象とした対ゲリラ戦部隊が含まれていたという。こうして韓国軍は釜山からの増援と支援を獲得し、月末までに人民軍の前進を足止めしたのである。 8月5日、人民軍第12師団は周辺地域に潜伏していた766部隊の各隊と呼応した反撃を発動、首都師団を撃退する。その勢いのまま、人民軍では国連が新たに設置した釜山橋頭堡への進路を確保するべく浦項攻撃の準備を始めた。766部隊は第5師団との協同が命じられた。人民軍では橋頭堡に対する大規模な同時攻撃と包囲作戦を計画しており、この中で第5師団と766部隊は側面迂回によって国連軍への包囲を完成させ、釜山に押し戻すという役割が与えられていた。北朝鮮側作戦部では、両軍主力が大邱=洛東江戦線の突出部(英語版)に展開している事と、小部隊の方が被発見率を低下させられる事から、766部隊に対する増援は行なっていない。 しかし、この時点ですでに人民軍の兵站はほぼ崩壊していた。8月初頭までに、各戦線に展開している人民軍部隊は食料や弾薬、兵器などの供給を受ける事がほとんどなくなり、彼らは鹵獲した国連軍の装備や食料に頼るようになっていた。766部隊もその例外ではなく、将兵の士気こそ非常に高かったものの、一ヶ月間の攻勢ですっかり消耗していた。こうした状況の中、766部隊の各隊は国連軍の補給線に対する襲撃任務に従事するようになり、国連軍から様々な装備や物資を鹵獲して補給の代替に充てた。
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抵抗運動
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「チェコスロバキア亡命政府」の記事における「抵抗運動」の解説
詳細は「ナチス・ドイツに対するチェコのレジスタンス活動」を参照 亡命政府はチェコ内に残留した抵抗勢力と連絡を取り、援助した。特にベーメン・メーレン保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺(エンスラポイド作戦)には深く関与したが、この事件はドイツによる報復虐殺を招く事になった。1944年8月29日のスロバキア民衆蜂起にも関与したが、この蜂起も失敗した。
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抵抗運動
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パルチザン (軍事)レジスタンスやレジスタンス運動も参照。 赤軍パルチザン第二次世界大戦の独ソ戦の最中、ソビエト連邦におけるナチス・ドイツ占領地域における抵抗活動。 FCパルチザン・ミンスク上記にちなんだ、ベラルーシのミンスクを本拠地とするサッカークラブ。 ビエルスキ・パルチザンポーランド東部・ベラルーシ西部のユダヤ人パルチザン。 抗日パルチザンロシア内戦から第二次世界大戦までの間、朝鮮独立を目指した共産主義系の非正規軍。 パルチザン (ユーゴスラビア)第二次世界大戦中のユーゴスラビアにおける、ユーゴスラビア共産党によって組織された抵抗運動。 パルチザン・ベオグラード上記にちなんだ、セルビア・ベオグラードを本拠地とするサッカークラブ。 KKパルチザン同じく上記にちなんだ、セルビア・ベオグラードを本拠地とするバスケットボールクラブ。 森林パルチザンイランのムスリム民族主義者、ミールザ・クーチュク・ハーン(英語版、ペルシア語版、アラビア語版、ロシア語版)率いるジャンギャリー運動(英語版、ペルシア語版、フランス語版)の日本における通称で、反イギリス・反ロシアの民族解放闘争を戦い、一時的にギーラーン共和国を樹立した。 京大パルチザン サイバー・パルチザン - ベラルーシの反政府ハッカー集団。
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