三省堂 大辞林 |
ベラルーシ [Belarus]
ウィキペディア |
ベラルーシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 09:20 UTC 版)
- ベラルーシ共和国
- Рэспу́бліка Белару́сь
-


(国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 我等、ベラルーシ人

-
公用語 ベラルーシ語, ロシア語 首都 ミンスク 最大の都市 ミンスク 独立
- 宣言
- 承認ソビエト連邦より
1990年7月27日
1991年8月25日通貨 ベラルーシ・ルーブル(BYR) 時間帯 UTC +3(DST: なし) ISO 3166-1 BY / BLR ccTLD .by 国際電話番号 375
ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する。首都はミンスク。ソビエト連邦から独立した。国際連合にはウクライナと共に、ソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。
目次 |
国名
正式名称はベラルーシ語で、Рэспубліка Беларусь(ラテン文字表記は、Respublika Belarus')。
公式の英語表記は、Republic of Belarus(リパブリック・オブ・ベラルース)。通称、Belarus。
日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ。
少なくとも16世紀にはこの地は「ベラ(白)ルーシ」と呼ばれていた。この「白」の意味するところについては定かでない。このあたりに極めて白い肌をした人々の国があるとかつて考えられていたことに由来する[2]、方角を色で表すルーシの習慣(白は西を示す)に由来する、などの諸説がある。
17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:Белоруссия ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусь(ビラルースィ)の名称が使用されるようになっている。
歴史
詳細は「ベラルーシの歴史」を参照
6-8世紀にスラヴ民族が移住開始したと一般に言われていたが、近年では古代からすでにスラヴ民族はこの地に定住し続けていたという説が有力である[3]。
9世紀のキエフ・ルーシの一部だったポロツク公国がベラルーシの始まりとされる。バルト海と黒海を結ぶ通商路として繁栄した。
10-11世紀にポロツク公国は版図を拡大し、 キエフ・ルーシやノヴゴロド公国と争った。南部には10世紀末にトゥーロフ公国が成立。一時、モンゴルに征服される。
12世紀から13世紀前半には、10前後の公国が存在し、ベラルーシ人の民族意識が高まり、団結しドイツ騎士団やモンゴル帝国と戦った。13世紀までにベラルーシの地域(ルーシと呼ばれる地域の北半)の公国はすべてリトアニア大公国に併合される。リトアニア大公国における貴族の大多数は実はリトアニア人(リトアニア語を母語とする人々)ではなくベラルーシ人(当時はルーシ人、のちリトヴィン人と呼ばれた)で、リトアニア大公国の公用言語はリトアニア語ではなくベラルーシ語(当時は通常はルーシ語と呼ばれ、さらに、リトアニア大公国の官庁で使用された公式言語であることから官庁スラヴ語とも呼ばれた)が使われる。
1385年、クレヴォの合同によりポーランド・リトアニア合同が成立すると、ベラルーシを含むリトアニア大公国全域の貴族の間で文化や母語の自発的な「ポーランド化」が始まる。クレヴォの合同後最初のリトアニア大公であるヴィータウタスが1430年に没すると、リトアニア大公国貴族によるポーランドの文化と言語の受容が加速した。1569年にルブリンの合同により物的同君連合としての単一国家である「ポーランド・リトアニア共和国」が成立するとこの地域の文化のポーランド化がさらに進み、リトアニア人とベラルーシ人を含むリトアニア大公国のほぼすべての貴族がポーランド化する。この「ポーランドへの同化」現象は1795年までの三度に渡るポーランド分割によりベラルーシ地域がロシア帝国に併合されるまで続いた。この間、貴族層の家系の大半とその他ルーシ人の多くはこの時代までにローマ・カトリックに改宗を済ませ、母語もポーランド語を使用するようになっていたが、あいかわらずルーシ語を母語とし東方正教会を信仰していた者も農民層を中心に多数いた。
ベラルーシ人(ルーシ人)貴族の家系のポーランド化の典型的な一例として、アメリカ独立戦争の英雄でかつポーランド・リトアニア共和国滅亡期(ポーランド分割期)の愛国者として有名なタデウシュ・コシチュシュコが挙げられる。彼は、「リトアニア大公国北ルーシ(ベラルーシ)地方のブレスト近郊の(現在は廃村となっている)メレチョフシュチズナ(Mereczowszczyzna)村出身の、東スラヴ(ルーシ)系であるベラルーシ人(ルーシ人)の家系のリトアニア大公国下級貴族の、ローマ・カトリック教徒のポーランド(1791年5月3日でポーランド・リトアニア共和国は完全統一してポーランド王国となった)国民」である。コシチュシコの名前はリトアニア大公国の公用語だったことのあるベラルーシ語ではアンドレーイ・タデーヴシュ・バナヴャントゥーラ・カシツューシュカ(Андрэ́й Тадэ́вуш Банавянту́ра Касьцю́шка)、リトアニア大公国における非公用語の現地語であったリトアニア語ではタダス・コーシツュシュカ(Tadas Kosciuška)となる。この例が示すように、この地域の人々の「民族」の意識は、複雑であるというよりむしろ希薄なものであって、これは民族というよりはほとんど一国内のなかの「おらが村」的な地方人意識にすぎなかった。当のポーランド貴族(シュラフタ)たちの意識においては、ポーランド貴族(シュラフタ)であること、特にコシチュシコが活躍したポーランド1791年5月3日憲法制定後の時代はポーランド国民であることだけが重要であった。コシチュシュコが守ろうとしたのはポーランド民族というわけでなく、「ポーランド(1791年5月3日まではポーランド・リトアニア共和国)」という、多民族が数世紀も平和に共存した偉大な国家であった。ポーランド・リトアニア共和国国内に住んでいたベラルーシ人、リトアニア人、ウクライナ人、ドイツ人などが「自分たちはポーランド人ではない」という「排他的な自己意識」すなわち近代に成立した国民国家の民族意識をはっきりと持つようになったのは19世紀よりも後のことである。
その後ロシア帝国に支配されていた時代は、地方自治レベルでは旧ポーランド・リトアニア共和国の貴族(ほとんどがローマ・カトリック教徒)たちによる一定の権限が許されていた。その間貴族たちはポーランド・リトアニア共和国の独立をめざす蜂起を2度起こした。1830年11月に行われた大蜂起(十一月蜂起)が失敗に終わると、貴族たちを中心にポーランド系の多くの人々がロシア帝国を脱出し、西ヨーロッパやアメリカ大陸の各国へ亡命した(これは「大亡命」と呼ばれる)。それでも民主ポーランドを復活させようとする人々は1863年に2度目の大蜂起(一月蜂起)を起こす。これがロシア帝国によって再び鎮圧されると、ポーランド貴族や商工民やインテリはキリスト教徒であるかユダヤ教徒であるかを問わず徹底的な迫害に遭った。その結果、この地域の中産階級以上の人々(ほぼすべてがポーランド人 - ポーランド化した家系の人々 - であった)は亡命するか、あるいは財産を没収されてほとんど無産者となり、中産階級そのものが滅亡した。その結果、ベラルーシに残った人々の大半は農民となり、ロシア帝国による直接支配が進んだ。ベラルーシの農民の大半はポーランド語を話すローマ・カトリック教会信者か、ルーシ語を話す東方正教会信者かのどちらかであった。前者(すなわちルーシ人からポーランド人となった者)はポーランドに近い西部に多く、後者(ルーシ人でい続けた者)はロシアに近い東部に多かった。
一月蜂起以後はロシア帝国によるポーランド人(キリスト教徒とユダヤ教徒の間)分断政策が開始され、ロシア帝国から俗に「リトアニアのユダヤ人(リトヴァク)」と呼ばれるロシア系(東欧系)ユダヤ人たちが大量に送り込まれた。リトヴァクたちは14世紀の昔からずっとポーランドにいた西欧系ユダヤ人(ユダヤ教徒のポーランド人)とは文化も習慣も言語もかなり異なる人々で、ポーランドのキリスト教徒とユダヤ教徒の両方から嫌われる存在だったが、あまりに大量に移住してきたのでこの地域の人口動態を大きく変えてしまう事態になった。(この段落部分は、通常の理解とは異なる。通説的には次の通り。ベラルーシのユダヤ人は、ポーランドが呼び寄せた西欧ユダヤが、リトアニアとの合同により(リトアニア領内だった)ベラルーシに拡散したものが中心である(Lithuanian Jews http://en.wikipedia.org/wiki/Lithuanian_Jews )。その頃ロシアはユダヤ人の移住を認めていなかったので、領内にはほとんどいなかった。その後、ロシアがポーランド分割によりベラルーシを含む旧ポーランド・リトアニアの一部を領有した結果、ロシアは国内にユダヤ人を抱え込むことになったが、その後も分割領有前のロシア領内にはユダヤ人の立ち入りを認めなかった。)このルーシ農民階層、リトヴァク、そして後にロシアから大量に移住してくるロシア人の3者が、後のソヴィエト連邦(ソ連)ベラルーシ共和国の主要民族となり、特に最初の2者はソ連の無宗教政策によって完全に融合してしまうのである。
1917年にロシア革命が起こり、そして第一次世界大戦の間占領していたドイツ軍の占領が終わった後、1918年には史上初の独立国となるベラルーシ人民共和国が樹立される。しかしこの政権は短命に終わり、1919年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦に加盟する。この頃に起こったポーランド・ソビエト戦争の結果成立したリガ条約により西半分がポーランドに割譲された。
1939年9月の第二次世界大戦の勃発により、ソ連軍はポーランドに侵攻。ポーランド東半分の占領と共に、リガ条約により割譲されていた領土を白ロシアに編入した。1941年から、ナチス・ドイツに占領されていたが、1944年にソ連に復帰する。ナチスドイツとの戦闘は「ベラルーシ作戦」として戦史に残る。1945年に第二次世界大戦が終わると、ポツダム会談での取り決めによってソ連とポーランドの国境が西へ移動され、ベラルーシ全域がソ連領ベラルーシ共和国となり、この地域に住むポーランド系住民は西方へ追放された。この追放をソ連や現在のロシア共和国では「移住」と呼ぶ。これにより、ベラルーシ共和国は家系がポーランド化せずにルーシ人(ベラルーシ人)だった者か、あるいは19世紀にロシアから大量に移住してきた東欧ユダヤ系の家系の者、あるいはその混血ばかりの国家となったが、さらにロシア共和国などから多数のロシア人が移住してきた。
1986年4月26日、ベラルーシ共和国の南のウクライナの最北部にあるチョルノーブィリ原発事故が発生し、おりからの南風に乗って放射性物質が国境を越え、南東部のホミェリ(ゴメリ)州を中心とする地域に大きな被害が及んだ。特に、外で遊んでいた子供たちへの被害は甚大で、その3人に1人が甲状腺癌に侵された[要出典](チェルノブイリ原子力発電所を参照)。
1990年7月27日に独立宣言(主権宣言)を行い、1991年8月25日に独立が承認された。同年の12月8日にはベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシアのボリス・エリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチの三者の間でソビエト連邦の解体を宣言、独立国家共同体 (CIS) 創設に関する協定が締結された。9月15日には国名が白ロシアから正式にベラルーシ共和国となった。
1994年に実施された大統領選挙では、ロシア連邦との統合を目指すなどの選挙公約を打ち出したアレクサンドル・ルカシェンコが当選した。ルカシェンコ大統領は、1999年12月8日に、ロシア連邦のボリス・エリツィン大統領(当時)との間に、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野においての統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約に調印した。しかし、その後、プーチンがロシア連邦の新大統領として就任し、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになると、ルカシェンコ大統領は、ベラルーシをロシアに吸収合併する形での両国の統合構想に反発するようになり、両国の統合は停滞、以降何も進展が無い。
2010年にウクライナで親ロシア派の政権が誕生し、ロシアにとっての頭痛の種は一つは解決したが、ベラルーシについては、ルカシェンコ大統領の「ベラルーシを大国と認識し、自身をロシアの対等なパートナーと認めよ」と言わんばかりの偉そうな振る舞いにロシア側が辟易しているとされる[4]。また、ロシアのメドベージェフ大統領は、2010年10月3日にルカシェンコ大統領を厳しく批判する旨を自身のビデオブログで述べており、ベラルーシとの関係がこじれている。
一方、2010年12月の大統領選挙では、選挙後に野党の候補者が政権により拘束されたという[5]。このため、EUとアメリカが制裁を決定する[6]など、現在のベラルーシは国際社会からの孤立を深めている。
ルカシェンコが四選を果たした直後から2011年7月現在に至るまで、ベラルーシ国内は深刻な経済危機に陥っている。そんな中、SNSなどでの呼びかけで、市民の間でルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めている。政権に抗議する市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くと言う静かで平和的な抗議運動を行っているが、治安当局はデモ隊の徹底した弾圧を実行している[7]。
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ Why is the Russia White?
- ^ *J. P. Mallory, "Zarubintsy Culture", Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn, 1997.
- ^ “「ガス戦争」欧州に広がったロシアへの不信感”. 読売新聞. (2010年6月24日) 2010年6月24日閲覧。
- ^ 2011年2月3日の朝日新聞朝刊9面
- ^ 2011年2月3日の朝日新聞朝刊9面
- ^ “Belarus Police Stifle Protests On Independence Day”. Radio Free Europe Radio Liberty. (2011年7月3日) 2011年7月9日閲覧。
- ^ “「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ大統領窮地 ベラルーシ経済危機 露、統合路線を加速”. 産経新聞. (2011年5月31日) 2011年5月31日閲覧。
固有名詞の分類
「ベラルーシ」の用例一覧
在外公館に勤務する外務公務員の特殊語学手当に関する政令施行規則 (e-Gov)
ウェー語、ハンガリー語、フィンランド語、ブルガリア語、ベラルーシ語、ポーランド語、ポルトガル語、モルドバ語、ラトビア語、リトアニア語、ルーマニア語、ロシア語、パシュトウ語、アラビア語、ヘブライ語、ペルシャ語、トル...
law.e-gov.go.jp/htmldata/S27/S27F03301000024.html
国家公務員等の旅費支給規程 (e-Gov)
ベキスタン、カザフスタン、キルギス、グルジア、タジキスタン、トルクメニスタン、ベラルーシ、モルドバ及びロシアを含み、トルコを除く。)、アイスランド、アイルランド、英国、マル...
law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25F03401000045.html
在外公館に勤務する外務公務員の休暇帰国に関する省令 (e-Gov)
アチア) ベオグラード(セルビア) ドゥシャンベ(タジキスタン) アシガバット(トルクメニスタン) ソフィア(ブルガリア) ミンスク(ベラルーシ) ワルシャワ(ポーランド) サラエボ(ボスニア・ヘル...
law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29F03301000003.html
ベラルーシに関係した商品
- 激安,人気,格安,コスプレ,コスプレ衣装,コスチューム,cosplay,イベント,オーダーメイト,Axis Powers ヘタリア ベラルーシNo.cos242Axis Powers ヘタリア ベラルーシ別Verコスプレ衣装フルセット★激安・人気・業者製・コスプレ衣装★コスユニット
- 激安,人気,格安,コスプレ,コスプレ衣装,コスチューム,cosplay,イベント,オーダーメイト,Axis Powers ヘタリア ベラルーシ フルセットNo.cos327Axis Powers ヘタリア ベラルーシ フルセットコスプレ衣装★激安・人気・業者製・コスプレ衣装★コスユニット
- 2011激安セール!2万円以上全国送料無料!☆【コスプレ衣装】☆Axis Powers ヘタリア☆ベラルーシ【海外から発送・代引き不可】◆【コスプレ衣装】☆Axis Powers ヘタリア☆ベラルーシ 【羽翼COSPLAY】サイズ指定可アリババのたまご