ローマ問題
ローマ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:22 UTC 版)
「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「ローマ問題」の解説
詳細は「ローマ問題」を参照 このようなガリバルディの革命事業は、決して満足のいくものではなかった。“アルプス山脈からアドリア海までの完全な自由”という彼のモットーから見れば、まだローマとヴェネツィアが未回収であった。マッツィーニとて新たな支配的な政府に不満であったから、新共和国に対する揺さぶりを続けた。ガリバルディも王の怠惰に不満があり、冷遇に苛立ってもいた。彼が教皇領の奪回を意図したのはこのときである。 教皇領の奪回は世界中のカトリック教徒から不審の目で見られており、ナポレオン3世もフランス軍をローマに駐留させることによって、教皇領のイタリアからの独立を保証していた。1862年6月、ガリバルディはジェノヴァを出航し、教皇領奪回のための義勇兵を求めてパッラヴィチーノ(イタリア語版、フランス語版)が県知事を務めるパレルモに上陸した。熱狂的にイタリアの完全統一を望む者たちはすぐに彼の義勇軍に加わり、イタリア本土に向かうべくメッシーナへと向かった。到着したときには彼は2000の兵を率いていたが、駐留軍は王の指示を忠実に守って彼らの通過を禁止した。そのため彼らは南に転進し、カターニアから出航した。ガリバルディはここで「勝者としてローマに入城するか、あるいはその壁の前に倒れるかのどちらかだ」と宣言したという。 8月14日にはメーリトに上陸し、一時カラブリアの山々を占領した(アスプロモンテの戦い)。イタリア政府のウルバーノ・ラッタッツィ(イタリア語版、英語版)首相は、この行動を支援することはもとより承認さえもしなかった。チャルディーニ(イタリア語版、英語版)将軍は義勇軍に対し、パッラヴィチーニ(イタリア語版、フランス語版)大佐の師団を派遣し、両軍は8月28日に対峙した。王国軍の1人が発砲し、立て続けに一斉射撃が義勇軍を襲った。ガリバルディが義勇兵たちに反撃を禁止したことから戦闘はすぐに終結し、負傷したガリバルディを含む多くの義勇兵が捕虜となった。 政府の汽船で連行されたガリバルディは、名誉ある囚人として収監され、退屈と傷を治すための手術を強要された。彼の軍事行動は失敗に終わった。しかし彼の人気は衰えることはなかった。傷が治り健康が回復すると、カプレーラ島に帰ることも許された。
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ローマ問題
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詳細は「ローマ問題」を参照 イタリア王国によるローマ併合によって俗界権力を失った教皇ピウス9世は自らをバチカンの囚人(英語版)(prigioniero del Vaticano)と呼び、対決姿勢を崩さなかった。1871年5月にイタリア政府は教皇保障法(英語版)(Legge delle Guarentigie) を制定し、教皇の地位の保証、年金の支給、そしてチッタ・レオニーナ(英語版)(現在のバチカン市国の地域)における教皇庁の統治と独立を一方的に定めた。これに対し、教皇ピウス9世は即座に拒絶の回勅を発する。1874年には、「ノン・エクスペディト(英語版)」(ふさわしくない:Non Expedit)を宣言し、イタリアの全てのカトリック教徒に対し、国政選挙への立候補と投票を禁じた。 教皇と断絶したイタリア政府だが、利益もあり、教皇に配慮することなくイタリア全土に対して修道院・宗教団体廃止法を施行することができ、教会の土地を没収し売却益を得た。もっとも、これらの土地は地主層に購入され、農民に配分されることはなかった。教皇庁とイタリア王国との断絶は、1929年に教皇庁とファシスト政権との間にラテラノ条約が締結されるまで50年以上続くことになる。
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