イスラム世界
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:39 UTC 版)
イスラーム天文学は地球球体説をギリシアの天文学から受け継いだ。イスラームの理論的枠組みはアリストテレス(『天体論』)やプトレマイオス(『アルマゲスト』)の基礎的な功績に大きく依拠していたが、アリストテレスもプトレマイオスも地球が球体であることと宇宙の中心に存在すること(地球中心説)を前提としていた。 ムスリムの学者は初期から地球が丸いと認識しており、地上のあらゆる位置からメッカの方角・距離を計量できるようになるために、イスラーム数学者は球面三角法を発達させることになった。これによりキブラ、つまりムスリムが祈る向き、が決められる。 アル・マームーン 830年頃、カリフアル・マームーンがイスラーム天文学者やイスラーム地理学者達に、タドムール(パルミュラ)からラッカ(現在のシリアに位置する)までの距離を測るように委任した。彼らは、両都市が緯度にして1度、子午線弧長測量で662⁄3マイル離れていることを発見して、それゆえ地球の周長は24000マイルだと計算した。 アル・マームーンの別の天文学者による測量では緯度1度が562⁄3アラビアマイル(111.8 km)であり、周長は40248kmと計算され、現在用いられている1度あたり111.3kmで周長40068kmという値にそれぞれ非常に近い。 アル・ファルガーニー アル・ファルガーニー(ラテン語名アルフラガヌス)は9世紀のペルシア人天文学者で、アル・マームーンに委任されて地球の直径の算出に携わった。彼による上記の緯度の値(562⁄3アラビアマイル)の算出はプトレマイオスによる602⁄3ローママイル(89.7km)という値よりもずっと正確であった。クリストファー・コロンブスは、プトレマイオスが提出したよりも地球が小さいことを証明するために、アル・ファルガーニーの値をアラビアマイルではなくローママイルに当てはめて無批判に使った。 ビールーニー アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年-1048年)は地球の周長を計算するために新たな手法を用い、現在用いられているものに近い値に到達した。彼の算出した6339.9kmという地球の半径の値は現在用いられている6356.7kmという値に16.8km足りないだけにすぎない。二つの異なる場所から同時に太陽を見ることで地球の周長を算出した先達たちとは違い、ビールーニーは平地と山頂の角度に基づいて三角法による計算を使った新しい手法を発展させ、それによってより精確な地球の周長の値を得て、一人の人間が一か所から測量するだけでその値を算出できるようにした。ビールーニーの手法は「暑く、埃っぽい砂漠を歩くこと」を避けようとしたものであり、彼がインドの高山に上った際に思いついたものである。彼は山頂から地平線を見た際に、それが(既に計ってある)山の高さとともに大地の曲率を計るのに使えることに気づいたのである。彼は代数学をも用いて三角方程式を立て、アストロラーベを用いて角度を測った。 ジョン・J・オコナーとエドマンド・フレデリック・ロバートソンは『マックチューター数学的発見史』にこう書いている: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「ビールーニーは測地学と地理学に対する重要な功績も成している。彼は地球を計測する新しい方法を導入して、それによって三角法を用いて計った。彼は地球の半径として6339.6kmという値を確立したが、これほど正確な値は西欧では16世紀まで得られなかった。彼の『マスウード宝典』には600以上の場所の座標の表が掲載されているが、彼はそのほぼ全ての値を自身による測量から導いていた。」
※この「イスラーム世界」の解説は、「地球球体説」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「地球球体説」の記事については、「地球球体説」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 02:59 UTC 版)
「アラブ人の奴隷貿易」の記事における「イスラーム世界」の解説
「イスラム世界」、「en:Muslim conquests」、および「en:Islamic economics in the world」も参照 イスラーム教は西暦7世紀に出現し、次の100年間で地中海地域に急速に拡大した。イスラーム教徒によるサーサーン朝ペルシアの征服(イスラーム教徒のペルシア征服)やビザンツ帝国の多くの領地の征服(アラブ・東ローマ戦争)、レバント(イスラーム教徒のシリア征服en:Muslim conquest of Syria)やアルメニア(アラブ人のアルメニア征服en:Arab conquest of Armenia)や北アフリカの征服(ウマイヤ朝の北アフリカ征服en:Umayyad conquest of North Africa)の後に広まった。またイベリア半島に侵攻し(ウマイヤ朝のヒスパニア征服en:Umayyad conquest of Hispania)、西ゴート王国に取って代わった。 こうした地域は広い範囲に渡る多様な人々を抱えることとなった。ある程度まで、こうした地域は宗教的市民的双方の基礎に建てられたイスラーム文化で統一された。例えば、彼らはアラビア語と「ディナール」(通貨)を商業的取引に用いた。アラビア半島のメッカは、現在と同じように、イスラーム教の聖都であり、出自に関係なく全てのイスラーム教徒の巡礼の中心であった。 バーナード・ルイスによると、イスラーム帝国は最初に「中国人やインド人、中東や北アフリカの人々、アフリカ黒人、ヨーロッパ白人といった異なる人々」を一つにまとめたので、最初の「真に普遍的な文明」である。 アラブ軍の征服とそれに続くイスラーム国家の拡張によって、常に戦争捕虜が獲得された。彼らは、戦争におけるイスラームの伝統に従って、捕虜として扱われるよりむしろ釈放されるか奴隷つまりラキーク (رقيق) や召使いにされた。一度奴隷になると、特にウマイヤ朝やアッバース朝時代は、イスラーム国家の法であるイスラーム法に従って取り扱われなければならなかった。法に従い、奴隷は選択すれば自分で生計を立てることができるが、そうでなければ所有者(主人)には生活費を給与する義務であった。奴隷と主人の間に同意がなければ、主人のために稼ぐよう強制することは出来なかった。この考えは、イスラーム法でمخارجة (ムハーラジャ)と呼ばれる。もし奴隷が同意すれば、自身の解放のために稼いた金額を貯める傾向にあり、そして奴隷と主人の間にはその契約が書かれなければならなかった。これはイスラーム法学で مكاتبة (「ムカータバ」en:mukataba)と呼ばれた。イスラーム教徒は、 コーランにあるように奴隷主は奴隷と「ムカータバ」をするよう強く推奨されていると信じていた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}... またあなたがたの右手が持つ者の中,(解放の証明)証書を求める者があって,あなたがたがかれらの善良さを認めるならば,その証明を書きなさい。なおアッラーがあなたがたに与えられた資財の一部をかれらに与えなさい。 ... —コーラン、御光 en:An-Nur章 イスラーム文明の枠組みは、根本的には都市とオアシスの商業センターとそれに付随する市場(スークやバザール)の発達したネットワークである。こうした都市は、半乾燥地帯や砂漠を横断する道路システムで相互に繋がっている。交易路は、このキャラバン交通の一部をなす奴隷や護衛によって旅された。 男女比が2:1か3:1であった大西洋奴隷貿易と異なり、アラブ人の奴隷貿易では通常女性比率が高く、一般に女性奴隷が選好されたことが読み取れる。妾や再生産の需要が女性奴隷(多くが白人系)を輸入する上での動機となったが、その一方で多くが家事をさせるために輸入された。
※この「イスラーム世界」の解説は、「アラブ人の奴隷貿易」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「アラブ人の奴隷貿易」の記事については、「アラブ人の奴隷貿易」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:18 UTC 版)
詳細は「地球球体説#イスラーム世界」を参照 9世紀のアッバース朝期に天文学と数学が大きく開花した。この頃にムスリムの学者がプトレマイオスの著作を翻訳して『アルマゲスト』となり、さらに球体説に基づいて彼の研究を拡張・発展させ、以降広い敬意を集めることとなった。しかし、13世紀にイスラーム黄金時代が終焉すると、より伝統的な観念が徐々に勢力を増した。 クルアーンには、世界が「広げられた」とか「平たく作られた」などと言及されている。これに関して16世紀初期に書かれた古典的なスンナ派注釈書『タフスィール・アル・ジャラーラーイン』には「『平たく広げられた』といった彼の言葉sutihatに関しては、[開示された]法の学者達の意見通りに字義通りに読めば地球は平たいということになり、たとえ天文学者たち (ahl al-hay’a) の説が法の柱に矛盾しないとしても彼らの言うのとは違い球状ではない。」 「平たく作られた」ではなく「広げられた」と訳されている場合もある。
※この「イスラーム世界」の解説は、「地球平面説」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「地球平面説」の記事については、「地球平面説」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 05:38 UTC 版)
イスラーム世界では男系継承が主であるが、女系継承の例もある。ムハンマドの一族ハーシム家は、ムハンマドの死後も預言者の近親として高い敬意を払われたが、内部では男系で同等のアッバース家と、アブー・ターリブ家の中のアリー家(さらにはその中のアリー=ファーティマ家)との正統性を巡る争いがあった。 アッバース朝は、家祖アッバースのムスリムとしての活躍やムハンマドの父方の叔父であったことを理由にムハンマドの後継者であることを主張したが、アリー家を支持する勢力(シーア派やそれに近い一派)は、アリーとムハンマドの親しさやアリーの正統カリフとしての事績を理由に対抗した。 その中で、アリー=ファーティマ家を支持するシーア派は、ムハンマドの血筋は娘のファーティマを通じて女系でハサン、フサインに受け継がれており、ムハンマドの唯一の子孫であるアリー=ファーティマ家こそすべてのハーシム家を抑えて預言者の継承者にふさわしいと、女系継承の論理でムスリムの支持を集めた。 後代になってもこのことを理由に、サイイドは男系継承を主としながら、女系のサイイドも時代を下るにつれて認められるようになった。たとえば、中央ユーラシア・トルキスタンのヒヴァ、ブハラ、コーカンドの3ハーン国は、男系ではチンギス・ハーンの子孫である(少なくともそう認知されていた)が、女系を通じてサイイドでもあり(となっており)、実際にサイイドとして認知されていた。
※この「イスラーム世界」の解説は、「女系」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「女系」の記事については、「女系」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:19 UTC 版)
アラブ諸国などイスラームの影響が強い国では、紙幣の導入に時間がかかる場合があった。イスラーム経済に固有の事情により、交換するものは等量・等価でなければならず、素材として価値が高い金属貨幣が重視されたためである。1940年代半ばのアラブ諸国では多種類の金貨や銀貨の他に、貿易の決済やマッカ巡礼者の通貨交換用に英領インドのルピー紙幣を使った。サウジアラビアではリヤル銀貨が通貨だったが、銀価格高騰による流出で通貨危機が発生したため、事実上の紙幣である巡礼者受領証を発行し、のちに正式にリヤル紙幣を発行した。巡礼者用の紙幣は、サウジアラビアの他ではインドとパキスタンでも発行され、正式には外貨証券と呼ばれる。
※この「イスラーム世界」の解説は、「貨幣史」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「貨幣史」の記事については、「貨幣史」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 03:28 UTC 版)
イスラーム帝国の拡大に従って、従来からのヨーロッパとアジアを結ぶ中継貿易の役目に加えて、地域内の交易も盛んになった。アッバース朝の時代には、バグダート・バスラ・アレクサンドリアなどを結ぶ商業網が成立した。ディーナール金貨・ディルハム銀貨が代表的な貨幣であったが、各地から様々な地金や秤量貨幣などが流入して通貨として用いられた。こうした通貨間の交換を図るために9世紀にはサッラーフ(şarrāf)と呼ばれる両替商が成立し、後に砕銀・粒銀などの秤量貨幣をまとめて封印を施して、一定の貨幣価値をもって流通させたり、手形を扱ったりもするようになった。また、地方から租税として集められた貨幣や地金を公式の通貨に換金して政府に納入するジャフハズ(jahbadh)と呼ばれる御用業者もあった。
※この「イスラーム世界」の解説は、「両替商」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「両替商」の記事については、「両替商」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 03:41 UTC 版)
『インド誌』(1030年)を著したアブー・ライハーン・ビールーニーによってはじめてイスラーム系言語に翻訳された。この書はあまり広く読まれなかったが、16世紀にアブル・ファズルがインド哲学諸派の解説で、忠実・簡潔に紹介し、同時代のヨーガ実践者たちの思弁と実践的に肉体と魂の鍛錬法はイスラームの知識人や修道者の関心を集め、14~17世紀の著名なスーフィー文人に帰せられる修道論や雑録などにまぎれこんだ。18~19世紀のインド・ムスリムによるスーフィー文献にも色濃い影響を与えた。
※この「イスラーム世界」の解説は、「ヨーガ・スートラ」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「ヨーガ・スートラ」の記事については、「ヨーガ・スートラ」の概要を参照ください。
イスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:53 UTC 版)
イブン・スィーナーはアリストテレスの論、プトレマイオスの論、ネオプラトニズムの混交した説を述べた。彼は、地球を中心とした9の天球が同心円的構造を成しているとし、一番外側に「諸天の天」、その内側に「獣帯天の天球」、土星天、木星天、火星天、太陽天、金星天、水星天、月天、そしてその内側に月下界(地球)がある、とした。「諸天の天」から月天までの9天は全て第五元素であるエーテルから構成されており不変であり、それに対して月下界は四元素の結合・分解によって生成消滅を繰り返しているとした。9天は地球を中心に円運動を行っている。そして、その動力因は各天球の魂である。魂の上に、各天球を司っている知性(ヌース)がある。一者(唯一神、アッラー)から第一知性が流出(放射)し、第一知性から第二知性と第一天球とその魂が流出(放射)する。その流出(放射)は次々に下位の知性でも繰り返されて、最後に月下界が出現したとする。
※この「イスラーム世界」の解説は、「宇宙論」の解説の一部です。
「イスラーム世界」を含む「宇宙論」の記事については、「宇宙論」の概要を参照ください。
- イスラーム世界のページへのリンク