イスラム‐ていこく【イスラム帝国】
イスラム帝国
イスラーム帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:00 UTC 版)
7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒(ウマイヤ朝)が北アフリカのエジプトに侵攻・征服し、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ(マグリブ征服(英語版))。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年)(英語版))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル(英語版)や将軍ウクバ・イブン・ナフィ(英語版)によってベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。 イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されてグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。 マグリブとアンダルスでのベルベル革命(英語版)(739年 - 743年)、750年のアッバース革命の後、756年のムサラの戦い(スペイン語版、カタルーニャ語版)で後ウマイヤ朝(756年 - 1031年)が成立。 イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ(英語版)がイフリーキヤで自立しアグラブ朝(800年 - 909年)を興した。ウバイドゥッラーがアグラブ朝を倒し、ファーティマ朝(909年 - 1171年)を興すと、ベルベル人はその支配下でズィール朝(983年 - 1148年)を興した。ズィール朝にアルジェが建設された。
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イスラーム帝国
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ウマイヤ朝を滅ぼして成立したアッバース朝は、メソポタミア平原のバグダードを首都としてサーサーン朝の制度を取り入れた。広大な領土の交通がバリード(英語版)という駅伝制で整備されると、流通が改善して農業や手工業の商品化が進んだ。農業ではサワードと呼ばれる平野で商品作物が作られ、穀物はエジプトなどの穀倉地帯から自給が困難な地域へと運ばれた。都市では繊維製品の特産物が増え、エジプトの亜麻布、クーファやシーラーズの絹織物、ペルシアやアルメニアの絨毯が有名となる。こうして高級品のほかに穀物や繊維製品の流通も盛んとなった。都市の商業施設が充実し、隊商の宿と倉庫を兼ねたキャラバンサライと、仕入れたものを売るスークやバザールが組み合わせて建設された。外部の人間を一時的に保護して、旅人に食料や宿を提供する互助的なジワール制度もあった。大都市には、ジワールを巡礼や学問に利用する者も多数おり、ムジャーウィルーンと呼ばれた。最盛期のバグダードは人口が100万人を超え、バスラ道とクーファ道にそって貿易用の大市場が設けられ、各国の産物が集まった。
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イスラーム帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「正統カリフ」、「ウマイヤ朝」、および「アッバース朝」も参照 アラブ人たちのイスラーム共同体はエジプトから中央アジアに至る広大な地域を征服したが、ウスマーン治世中には征服活動が一段落した。そのためウスマーンは戦争に伴う戦利品の分配という伝統的な兵士たちへの報酬形態を改め、メディナから各地に徴税官を派遣して税を集め、その歳入からアラブ人兵士たちに一定の俸禄(アター、`Aṭā')を支払うという改革を行った。そしてこれを担当する官庁(ディーワーン、Diwan )がメディナに設置された。しかし、急激な制度変更には不満の声が強く、兵士たちは貢献度に見合った報酬の分配を求めて反抗の機運を高めた。ウスマーンが自らの一族(ウマイヤ家)に要職を優先的に委ねていたことが不満をさらに増幅した。各地の急進派がメディナに向けて進発し、エジプトのフスタートにいた不平派も同じくメディナへと向かった。彼らはウスマーンを殺害し、混乱の中で変わってアリー(在位:在位656年-661年)がカリフ位についた。しかし、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはウスマーンの報復を誓い、アリーと衝突した。両者は衝突の後、講和を話し合ったが、これに不満を抱いたアリー軍の一部兵士たちが離脱し(ハワーリジュ派)、彼らによって661年にアリーが殺害された。この一連の過程は第一次内乱と呼ばれ、アリーの殺害をもって正統カリフ時代の終わりとされる。ウマイヤ家のムアーウィヤは既に660年に自らをカリフと宣言しており、アリーの死亡によってムスリムの大半にカリフとして認められた(在位:661年-680年)。彼は自らの拠点であるシリアのダマスカスに都を定め、以降自らの子孫にカリフ位を世襲させた。これをウマイヤ朝と呼ぶ。さらに746年にはウマイヤ家に反対するアッバース家が反乱に踏み切り、750年にはアブー・アル=アッバースがカリフとしてアッバース朝を建設した。
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