アラブ・東ローマ戦争
アラブ・東ローマ戦争
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「ヤルムークの戦い」の記事における「アラブ・東ローマ戦争」の解説
この時代、南のアラビアでは政治情勢が急速に変化した。預言者ムハンマドのイスラームの教えが広まり、630年までにアラビアを統一した。632年にムハンマドが死ぬとアブー・バクルが第2第正統カリフに選出されるが、多くのアラブの部族が叛旗を翻しリッダ戦争(英語版)が起きた。アブー・バクルはメディナのカリフの権威の下で何とかイスラーム共同体(ウンマ)の分裂を防いだ。 内乱を鎮めたアブー・バクルは対外征服事業を始め、イラクに兵を進める。アブー・バクル麾下の勇将ハーリド・イブン・アル=ワリード率いる遠征軍はサーサーン朝軍を相手に連戦連勝で、イラクを制圧した。アブー・バクルはサーサーン朝と交戦しつつ、東ローマ帝国が支配するシリア侵攻の準備も始めるが(アラブ・東ローマ戦争)、東ローマ軍が反撃に出るとムスリムのシリア方面軍はこれに対応しきれず本国に増援を求め、ハーリドがイラクから派遣されることになった。634年11月、アジュナーダインの戦い(英語版)で東ローマ軍は敗れてダマスカスが陥落した。 アブー・バクルが634年に死ぬと後継者のウマルもシリア侵攻を続けた。ウマルと折り合いの悪かったハーリドは更迭され、アブー・ウバイダが後任の指揮官となった。パレスチナ南部を平定し南北に走る隊商の交易路沿いを北に攻め上がったムスリム軍は、ティベリア、バールベックを開城させ、635年初頭にホムスを占領した。
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アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)
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「東ローマ帝国」の記事における「アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)」の解説
詳細は「アラブ・東ローマ戦争」を参照 サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻した。636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失った。641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い(英語版))でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。 656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(英語版)(656年 - 661年)が始まる。661年、ウマイヤ朝が成立。 674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した。680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。698年、カルタゴの戦い(英語版)ではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。 717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。 女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリ(英語版)を締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。 イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のクラソスの戦い、806年のアッバース朝軍の小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んだ。811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が戦死し、後継者問題が起こった。ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされた。814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結んだ。827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服(イタリア語版、英語版)、827年-902年)、シチリア首長国(831年 - 1072年)が成立。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した。 こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
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