第一次ブルガリア帝国
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第一次ブルガリア帝国(だいいちじブルガリアていこく、教会スラヴ語:блъгарьско цѣсарьствиѥ, ローマ字表記:blagarysko tsesarystviye、ブルガリア語:Първа българска държава, ローマ字表記:Pǎ́rva bǎ́lgarska dǎržáva、英語:First Bulgarian Empire)とは、7世紀から11世紀の間の東南ヨーロッパに存在したブルガール人とスラヴ人の国家、そして後にブルガリア人国家となった帝国である。アスパルフに率いられたブルガール人の一派がバルカン半島北東部へ南進した後の680年から681年に建国された。コンスタンティノス4世率いる東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の軍隊にオングロスの戦いで勝利したことで、彼らはドナウ川の南に植民する権利について東ローマ側の承認を得た。9世紀から10世紀の間、最盛期のブルガリアはドナウ大曲から黒海、そしてドニエプル川からアドリア海へと拡大し、東ローマ帝国と競合する当地域の重要な勢力となった[9]。第一次ブルガリア帝国は中世の大部分を通じて、南スラヴ・ヨーロッパの主要な文化的かつ精神的な中心地となった。
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第一次ブルガリア帝国
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「ブルガリアの歴史」の記事における「第一次ブルガリア帝国」の解説
詳細は「第一次ブルガリア帝国」および「西ブルガリア帝国(ドイツ語版)」を参照 ローマの衰退にともないゲルマン民族のゴート人がこの地域に侵入。続いて遊牧民族のアヴァール人が侵入してきた。そして6世紀までにはスラヴ人(南スラヴ人)が居住。これをテュルク系のブルガール人が征服にて681年にブルガリア帝国を建国した。ブルガール人は先住民族のスラヴ人と同化してブルガリア人を形成し、南方の東ローマ帝国からビザンティン文化を受容し、9世紀の終わりにはボリス1世のもとでギリシア正教に改宗した。これによって異教の弾圧が進んだため、保守的なブルガール人の貴族の反乱が起こったが、これらは鎮圧された。しかし、これによってブルガリアにおけるギリシア正教の信仰が定まったわけではなく、ボリスの引退後に王位を継承した長男のヴラディミル(英語版)は、東フランク王国に接近しつつ異教信仰の復活を図った。このため、父ボリスによって廃位され、3男シメオンが王位につくことになった。このシメオン1世(位893年-927年)のもとで最盛期を迎え、マジャール人を西方に追いやりつつ、一時は東ローマ帝国を軍事的に圧倒し、コンスタンティノープルへの入城も果たした。次王ペタル1世(英語版)(位927年-970年)は、東ローマ皇帝と婚姻を通じて姻戚関係を結び、正式に「ブルガリア人の皇帝」の称号を得た。しかし、親東ローマ政策をめぐり国内での政治的分裂が進むなかで、再び東ローマ帝国が攻勢を強めていった。10世紀後半には東ローマ帝国の攻撃でプレスラフ(英語版)が占領され、ブルガリア皇帝ボリス2世(英語版)らが捕虜とされた。この際に国土の東部が失われ、1018年には、東ローマ皇帝バシレイオス2世によって残りの西ブルガリア帝国(ドイツ語版)領土も征服された。
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第一次ブルガリア帝国
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「サムイル (ブルガリア皇帝)」の記事における「第一次ブルガリア帝国」の解説
第一次ブルガリア帝国は皇帝を称したシメオン1世の死後、反撃に出た東ローマ帝国やセルビア人・マジャール人などとの戦いで衰退していた。969年にはキエフ大公国のスヴャトスラフ1世の遠征によって打撃を受け、さらに東ローマ帝国のヨハネス1世ツィミスケスがブルガリアを征服。皇帝ボリス2世(英語版)やブルガリアの皇族は東ローマの帝都コンスタンティノポリスへと連れ去られてしまい、いったん第一次ブルガリア帝国は滅びた。
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第一次ブルガリア帝国
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886年、ベオグラードの知事は、当時ブルガリアで、キリルとメトディウスの弟子たちを歓迎しました。ブルガリアは、864年にキリスト教に改宗した皇帝ボリスによって統治されました。キリスト教化の後、宗教的な儀式はビザンチンの聖職者によってギリシャ語で行われました。ビザンチンの影響力の高まりを恐れて、ボリスはブルガリアの政治的独立を維持する方法として古代教会スラヴ語の採用を検討しました。そのような見解で、ボリスは神学がスラヴ語で教えられることになっていた2つの文学アカデミーの設立のための準備をしました。最初の学校は首都プリスカに設立され、2番目の学校はオフリドのKutmichevitsa地域に設立されました。古代教会スラヴ語のリテラシーの発達は、近隣の文化への同化を防ぐ効果があり、明確なブルガリアのアイデンティティの形成を促進しました。 Naumは一緒に首都プリスカ最初に移動クレメント、AngelariusそしておそらくGorazd (他の情報源によると、Gorazdは、その時点ですでに死んでいました)。ブルガリアでは、彼は人生の次の25年を過ごしました。ナウムは、886年から893年まで働いていたプリスカ文学学校の創設者の一人でした。プリスカでの当時の活動の最も信頼できる直接の説明は、「手紙の説明」( O pismenech )です。これは、古代教会スラヴ語で書かれたスラブ語リテラシーに関する論文で、893年の直後に作成されたと考えられています。この作品は、一般的なスラブ文字の作成を求めています。 893年、彼が権力を握った直後、新しいブルガリアの支配者シメオン大王は、クレメントがドレンビカとヴェリカの司教に叙階された新しい首都プレスラフで教会評議会を召喚しました。オフリドのクレメントの後任として、シメオンはそれまでプレスラフで活動していたナウムを派遣しました。その後、ナウムはスラブの学習のもう一つの重要な中心地であるオフリドでクレメントの仕事を続けました。今年、キリル文字はプレスラフ文学校で作成され 、おそらくナウムのイニシアチブに従ってブルガリアで採用されました。 905年、ナウムはオフリド湖のほとりに修道院を設立し、後に彼の名前が付けられました。彼はそこで910年に亡くなり、クレメントは列聖のプロセスを開始しました。 このようにして、ナウムはブルガリアの最初の「ネイティブ」聖人になりました。
※この「第一次ブルガリア帝国」の解説は、「聖ナウム」の解説の一部です。
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第一次ブルガリア帝国
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「ブルガリア帝国」の記事における「第一次ブルガリア帝国」の解説
詳細は「第一次ブルガリア帝国」を参照 7世紀後半、黒海北岸の大ブルガリアから分離してドナウ川下流域のデルタ地帯に侵入してきたドナウ・ブルガール人は、アスパルフ(イスペリフ)を指導者としてこの地方の支配者であった東ローマ帝国と戦い、スラヴ人を支配する国家を形成し始めた。彼らは681年に東ローマ帝国と講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する。 建国当初のブルガリア帝国はテュルク系遊牧民の部族連合的性格を色濃く残し、君主は有力部族から選ばれる人物でハーンを称号とした。国内ではブルガール人は少数派で、支配下には様々な部族に分かれたスラヴ人がおり、ブルガール人は次第にスラヴ語を受け入れ、スラヴ人とブルガール人が一体となって現在のブルガリア人に繋がるスラヴ系の集団となっていった。 8世紀を通じブルガリアは東ローマ帝国と激しく争ったが、8世紀末に即位したクルム・ハーンのもとで神聖ローマ帝国に敗れて衰退したアヴァールの旧領を奪取し、東ヨーロッパ随一の大国に成長した。9世紀初頭にクルムは東ローマ帝国に勝利してトラキア地方に勢力を拡大し、のちの首都となるソフィアを奪った。811年には東ローマ皇帝ニケフォロス1世の親征を受けるがこれを打ち破り、813年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲するに至る。しかし、814年にはブルガリア軍はレオーン5世によって撃退された。 クルム以降、ブルガリアの歴代ハーンは東ローマ帝国支配下のスラヴ人の反乱を支援して南への拡大を続け、ボリス1世のとき864年にキリスト教に改宗した。キリスト教への改宗は異教の信仰を堅持する貴族たちの反抗にあったがハーンはこれを鎮圧し、893年に即位したシメオン1世のもとでコンスタンティノポリス総主教から独立したブルガリア正教会を確立、ハーンは918年より皇帝(初期はバシレウス、後にツァーリ)を称するに至った。 シメオン1世のとき、ブルガリア帝国の領土はマケドニア地方やギリシャのペロポネソス半島北部にまで及び、第一次ブルガリア帝国は最盛期を実現した。 その後は次第に衰え、970年にはキエフ大公スヴャトスラフ1世によって占領され、971年にはキエフ軍を討った東ローマ軍によって併合され、ボリス2世(英語版)がコンスタンティノポリスへ連れ去られて第一次ブルガリア帝国は滅亡した。
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