イスラム‐きょう〔‐ケウ〕【イスラム教】
読み方:いすらむきょう
《(アラビア)al-Islām》世界宗教の一。7世紀初めに、アラビアのメッカでムハンマド(マホメット)が創唱した。ユダヤ教・キリスト教と並ぶ一神教で、神からの啓示の記録とされるコーランが聖典。信仰の基本として、唯一神アッラー・天使・啓典・預言者・終末と来世・予定(天命)の六つを信じること(六信)と、実行すべき基本的義務として、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、メッカへの巡礼を行うこと(五行)にまとめられる。多数の派があり、特にスンニー派とシーア派に大別される。アフリカから中近東、東南アジアにかけて約7億の信徒がおり、独自の社会、国家を形成している。中国には7世紀末に伝わり、清真教・回教・回回(フイフイ)教などと呼ばれた。マホメット教。
イスラム教
イスラーム教
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上記のように、チャム共同体は近世以来「蛮」フロイ、「占」バチャム、「尼」バニー(含むカンボジアのカンイマムサン Kan Imam San)、「藍」イスラーム(ベトナム及びカンボジアのジャウィー化したシャーフィイーの人々を指す。海南のオチャ U-Tsatも1930年代の記録ではシャーフィイーであった)の四集団に分けられる。バチャムとバニーの信仰は、アニミズム(祖霊信仰)と習合したアッラー信仰である。非チャムの山地民であっても、チュルーやラグライなどの中には、カトリック・プロテスタントへの改宗以後も、キリスト教的な神とは別に、アニミズム的な神アッラーへの信仰を維持する人々がある。チャムであり、かつ山地民と国から認定されているフロイについては、イスラーム化した後でモン・クメール系の山地民バフナル(バナ、バナール)と共存しバフナル化する中で祖霊信仰にもどったのか、もともイスラーム化されていなかったのか不明であるが、アッラー信仰の存在は確認されていない。 『宋史』によれば、チャムの国家(チャンパ、占城)はすでに宋代(11世紀)においてイスラーム化が相当進み、朝貢使の多くがアラビア語名を持つ。チャムのイスラーム信仰においてはアリーが極めて重視される。アル・ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1325-1327ごろ)にはヒジャーズにおけるアル・ハッジャージの追討から逃れてアッ・サンフ(チャンパ)に渡った7世紀アリーユーン派(初期シーア派)の亡命伝承が載せられている。『占皇家編年史』(チャム王年代記, Sakkarai dak rai patao Cam)や、サカヤーがパンラン Pa-nrang、パリク Parik 地方で収集した伝承では、チャムのイスラームは、ジュクに滅ぼされて南属領のパンランに逃げた旧チャンパー・アグイ王国 Bal Angueiの王族と遺民に、最初期のイスラーム伝道者ポーシワンのふたりの子、ポーハニインパン Po Haniim Per とポークロンバラウ Po Klaong Barau の兄弟が伝えたものである。 1930年代の調査では、13世紀末に占城から海南に移住したとの伝承を持つ海南チャム(オチャ U-Tsat)はシャーフィイーであったため、宋代~明代の占城のイスラムもシャーフィイーだったと考えられる(現在の海南チャムはハナフィー集団に属する)。ポーシワンの「シワン」Siwan はNursawan, Nursiwan の異表記であり、イランの英雄王ホスローの別名アヌシルワン Anusirvan が変化したもので、イランまたは中央アジアの出自と考えられるため、これをジャワの初期イスラム伝道者スナン・グレシク(Sunan Gresik, Asmarakandi、中央アジア・サマルカンドの出身と考えられる)と同一人物に比定する意見もある。宗教職能者として、祖先祭祀を司るバチャムのアヒイン Ahiér < akhir(最後の人々)各職階と、アッラー祭祀を司るバニーのアワン Awal < awwal(最初の人々)の各職階がある。アワンの各職階はイムム(イマーム)など一般的なイスラームの職階と共通するものが多い。
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イスラーム教(イスラム教)
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「en:Islamic funeral」も参照 イスラーム教における死は、神アッラーへの服従と一時的な別れとし、アッラーの審判の日に復活をすると信じられているため、土葬される。死後なるべく早く葬儀を済ませるべきであるという考えから、死亡の翌日には執り行われることが多い。死亡した場所の法律にもよるが、同性の遺族または専門の業者が遺体を洗浄し、縫い目のない白い布に包まれ、ミンバル(説教壇)の前にある台に設置される。その前にイマーム(導師)が立つ。礼拝はイマームに従い、参列者が起立したまま行われる。遺族が葬儀中に泣き叫ぶことは禁止されている一方で、泣き女として雇われた女性が「オルルル!」という声を響かせる。礼拝が終わると遺体が墓地へ運ばれ、頭部をメッカの方向を向かせて、右腕が下になるようにして埋葬される。遺族は男性は3日間、女性は4ヶ月10日間を喪に服し、派手な生活は控えるよう規定されている。
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イスラーム教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:17 UTC 版)
イスラーム教の婚姻についての法によれば、夫は家庭と妻たちの保護者である。そのため、法的、経済的、家庭的な面において妻より多くの権利を持つとともに義務を負っている。婚姻に関するイスラーム法や文化は、そのほとんどがクルアーンに依拠している。 多くの場合、ムスリム(イスラーム教徒)の夫婦は完全に対等な関係を互いに求めることができる。イスラーム教は、世界に多くの信者を持つ主要宗教としては唯一一夫多妻の複婚を認めている。これはイスラーム教草創期には戦争で戦死する男性が多く、未亡人となった女性を生き残った男性が扶助する必要があったためである。ただし、夫が持てる妻は4人までとされ、すべての妻を公平に扱うことが求められている。イスラーム教では、結婚した男女以外の間での異性関係を厳しく禁止している。 夫である、既婚男性であることを示す外見特徴として定められているのは結婚指輪のみである。
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イスラーム教
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「インドにおけるイスラーム」および「インド・イスラーム文化」も参照 12世紀頃に西部からムスリムによるインド征服が行われ、その後にイスラーム教が広まり、インド最初のイスラーム国家ゴール朝が成立した。それ以来ムガル帝国の崩壊まで、インドはイスラム教国家であった。イギリスとの紛争の際に全インド・ムスリム連盟が結成された。 13.4%のインド人がムスリムである。核問題に関して隣国パキスタンとの対立が続いている上に、ムンバイでは2006年にムンバイ列車爆破事件が、2008年にはムンバイ同時多発テロが発生した。それまでにも存在していたヒンドゥー教との対立や相互不信は、これらの事件によって更に深まった。
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イスラーム教
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イスラーム教において、初期のころは、他との調和をはかる拝一神教であったが、メディナ期になると、敵と戦う絶対的一神教に転化した。 ウスマーン版ムスハフ全体を通じて、神の呼称は一貫していないとされている。初期のメッカ時代には、その時期ではおもに「主」と「アッラー」が、用いられているとされる。また、「われ」と言ったり、「われわれ」と言ったりする場面が数多くある。 神の存在について、ムスハフ解釈本では、二種類の姿が啓示されている。一つには、神は、「超越的・遍在的な人格神」としての姿であるとしている。これは、現代の宇宙論にも通用する姿であるといえる。もう一つは、神は、人間の上空にあって、全ての存在を支配している「高み座に座している人格神」であるとしている。そのどちらも、ムスハフでは、慈悲の神の姿として啓示されている。 啓示宗教における実存的な神としてみた場合、イスラームにおける「超越的・遍在的な人格神」は、ユダヤ教・キリスト教における「在りてある神」という神観念と同じであると見ることができる。
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