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ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/07/28 21:08 UTC 版)
(マホメット から転送)
ムハンマド(محمد Muḥammad 570年頃 - 632年6月8日)は、イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラーム教では、モーセ、イエス・キリストその他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている[1]。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。
| イスラム教 |
| 教義と信仰 |
| アッラーフ · イスラーム 六信 · 五行 |
| 指導者 |
| ムハンマド ハディージャ · アーイシャ |
| 法と規範 |
| クルアーン · シャリーア スンナ · ハディース |
| 金融・経済・財政 |
| イスラム経済 ハラージュ |
| 歴史的転換と潮流 |
| ウンマ · ハワーリジュ派 イスラム主義 |
| 秀逸な記事 |
| イスラム銀行 ムハンマド・アリー |
| 良質な記事 |
| イスラームにおけるイーサー ムハンマド・アリー・ジンナー |
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目次 |
名前と表記
フルネームはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ(محمد ابن عبد اللّه ابن عبد المطّلب Muḥammad ibn `Abd Allāh ibn `Abd al-Muṭṭalib)で、「アブドゥルムッタリブの息子アブドゥッラーフの息子ムハンマド」の意味。字義は「より誉め讃えられるべき人」。
ギリシア語資料では Μουαμεδ として表れる[2]。日本ではかつては西欧での表記(Mohammed, Mohamet, Mahomet など、ラテン語形 Machometus に由来)やトルコ語での表記(Mehmet, Muhammet)にしたがって、モハメッド、マホメットなどと呼ばれることが多かったが、近年では標準アラビア語(フスハー)の発音に近い「ムハンマド」に表記・発音がされる傾向がある。なお、「ムハンマド」はムスリムの典型的な名前でもあるため、区別のため「預言者ムハンマド」と呼ぶ場合がある。
なお、第2音節の ح ḥ は無声咽頭摩擦音の通常のhとは違うため、ラテン文字転写の場合は正確には下に点のついた文字で表される。(ラテン語で当該部分にchが使われているのもそのため)
生涯
啓示
ムハンマドはアラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、クライシュ族のハーシム家に生まれた。父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと伯父アブー=ターリブの庇護によって成長した。
成長後は一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加。25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、男子は2人とも成人せずに死んだ。
610年頃、悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。その後も啓示は次々とムハンマドに下され、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の者たちに彼に下った啓示の教え、すなわちイスラーム教を説き始めた。最初に入信したのは妻のハディージャで、従兄弟のアリーや友人のアブー=バクルがそれに続いた。
613年頃から、ムハンマドは公然とマッカの人々に教えを説き始めるが、アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったマッカを支配する有力市民たちは、ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに激しい迫害を加えた。伯父アブー=ターリブはハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、619年頃亡くなり、同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、ムハンマドはマッカでの布教に限界を感じるようになった。
聖遷
622年、ムハンマドは、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))の住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。これをきっかけに、マッカで迫害されていたムスリムは次々にヤスリブに移住した。マッカの有力者達は、ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、刺客を放って暗殺を試みた。これを察知したムハンマドは甥のアリーの協力を得て、新月の夜にアブー・バクルと共にマッカを脱出した。マッカは追っ手を差し向けたが、ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事にたどり着いた。この事件をヒジュラ(元来移住という意味だが聖遷や遷都と訳されることが多い)といいのちにヒジュラ暦元年と定められた。またヤスリブの名をマディーナ(預言者の町)と改めた。
マディーナではマッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合しムハンマドを長とするイスラーム共同体(ウンマ)を結成し、彼の教えやウンマの勢力増大に反発するユダヤ教徒などを排除しながらイスラーム共同体の基礎を築いた。
敵対者との戦争
ムハンマド率いるイスラーム共同体は周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、マッカの隊商交易を妨害したりしながら急速に勢力を拡大した。この動きを警戒したマッカ軍は624年、マディーナに侵攻しバドルの戦いが始まった。マッカ軍は1000名であるのに対し、マディーナ軍は300名であり劣勢であったがマッカ軍に大きな損害をあたえて勝利した。
翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したメッカは報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は戦闘前に離反者を出して不利な戦いをしいられ、マッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗しムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。これ以後、ムハンマドは組織固めを強化し、マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。
627年、マッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。ムハンマドは当時はまだアラビアにはなかった塹壕を掘って敵軍を防ぐ戦術をとりマッカ軍を翻弄した。さらに策略を持って敵軍を分断し撤退させることに成功した。塹壕のことをアラビア語でハンダクと言うため、この戦いはハンダクの戦いと呼ばれる。マッカ軍を撃退したイスラム軍は武装を解かず、そのままマッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲襲撃し、この攻勢に耐えかねて無条件降服した彼らの内、戦闘に参加した成人男子を全員処刑して虐殺し、女性や子供は捕虜として奴隷身分に落とさせ、彼らの財産を没収させた(クライザ族虐殺事件)。
ムハンマドは628年にフダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。この和議は当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これによりナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。これにともないムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、征服地における戦後処理の一基準となった言われている。しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、ウマルの時代に彼らが追放された後ムスリムによる土地の分配過程については、様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラームへの改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。
630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍にマッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
晩年
ムハンマドはマッカをイスラムの聖地と定め、異教徒を追放した。ムハンマド自身はその後もマディーナに住み、イスラーム共同体の確立に努めた。さらに1万2000もの大軍を派遣して敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。以後、アラビアの大半の部族からイスラムへの改宗の使者が訪れアラビア半島はイスラムによって統一された。
またビザンツ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。
632年、マッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。このときムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。大巡礼を終えてまもなくムハンマドの体調は急速に悪化した。ムハンマドはアラビア半島から異教徒を追放するように、自分の死後もコーランに従うようにと遺言しマディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所はマディーナの預言者のモスクになっている。
預言者ムハンマドは複数の未亡人を妻として迎え入れたが、クルアーンはこれを『戦争により夫を亡くした女性の地位を守るため』と記述している。12人目を迎え入れた際、神からの啓示が下され、迎え入れた女性に対し平等に接するため、妻は4人までと定められたとクルアーンには記されている。
- ^ クルアーンの記述では、「最後」の預言者であるとはしているが、「最高」ではないとしている。クルアーン46:8(9)
- ^ 9世紀に編纂されたビザンツ帝国の歴史書、『テオファネス年代記』622年の項目など。
- ^ 小杉泰『イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 』pp.101-104.
- ^ 例えば、「一般信者は四人までの妻が認められるが、ムハンマドはその限りではなく、より多くの妻を得てもよい。また一般信者は妻を公平に扱わなくてはならないが、ムハンマドはその限りではない」というようなことが書かれている。「最後の預言者」のくだりも、前後の文脈には他の預言者は一切登場しない。ここでの主旨は前後を読む限り、これはムハンマドが義理の息子ザイドの妻であったザイナブを妻として迎え入れることに対しての言及である。「一般信者はこれまで自分の息子の妻を、自らの妻とすることはできなかった。しかし今回、アッラーはそれをお許しになり、そのさきがけとしてムハンマドの結婚を許した」となる。つまり、一般信者と同じものさしで、預言者をはかってはならないのである。
- ^ 「日訳サヒーフ・ムスリム」第1巻、信仰の書、p55には、アナス・ブン・マーリクからの伝承として、ムハンマドが信者に「私ムハンマドをお前たちの子供や親、さらには全人類よりも尊ばなければ、イスラームを信じているとはいえない」と説教したと記されている
- ^ ただし、このことに関しては教派、時代、法学者によってかなりの差がある。たとえばイランの改革派シーア派法学者であるホッジャトル・イスラーム、セイイェド・モフセン・サイードザーデはスンナ・ハディースの安易な利用に反対しており、預言者も含めたムスリムの個人的言動と神の命令を厳しく峻別し、たとえ預言者ムハンマドであろうとイスラームの原理や精神に反する個人的行動が見られた際には、それに対しての批判がなされるべきだと明言している。-『イスラームとジェンダー・現代イランの宗教論争』p574~575
- ^ 『コルドバの殉教者たち-イスラム・スペインのキリスト教徒』K.B.ウルフ著、林邦夫訳、p133~135
- ^ イラン革命の指導者ホメイニーはこの措置を、イスラームと人類に利益に有害な集団は抹殺されて当然であるという主張を裏付ける例としてあげた。 (「イスラーム統治論・大ジハード論」ホメイニー著、富田建次訳、第4章pp98-99)
- ^ 花田宇秋 訳「バラーズリー著『諸国征服史』-2-」『明治学院論叢』415号 1987年10月。
- ^ 「日訳サヒーフ・ムスリム」第2巻、聖戦と軍事遠征の書、p804、伝承者ウマル・ブン・ハッターブ
- ^ エジプト総督ムカウキスに仕えた侍女のひとりで、姉妹のシーリーンらとともにムカウキスからの貢物としてマディーナへ送られたひとり。生涯コプト教徒として過ごしたため、また他のムハンマドの妻たちのようにムハンマドの家に住まず「信徒の母」とも呼ばれなかった。ムハンマドの家から程近い私邸に住まったといい、ムハンマドの死の5年後に没したと伝えられる。
- ^ ブハーリーの『真正集』「婚姻の書」第21節3項、第27節その他。
- ^ ブハーリーの『真正集』「婚姻の書」第43節より。
- ^ クルアーン第33章37-38節にはこの時の事情が述べられている。
- ^ コーラン第33章4節から5節、「アッラーはどんな男の体の中にも2つの心臓を創られない。あなたがたが、『わが母の背中のようだ。』と言って(離縁宣言する)妻をあなたがたの産みの親と同一に御創りにはなられない。またかれはあなたがたの養子を、あなたがたの実子ともなされない。これらは、あなたがたが口先だけで言ったことである。だがアッラーは真実を語り、且つ(正しい)道に導かれる。かれら(養子)の父(の姓)をもってかれらを呼べ。それがアッラーの御目に最も正しいのである。もしかれらの父(の姓)を知らないなら、信仰におけるあなたがたの兄弟、友ということにするがよい。あなたがたがそれに就いて誤ることがあっても、罪ではない。だがあなたがたの心に悪い意図のある場合は別である。アッラーは寛容にして慈悲深き御方であられる。」
- ^ コーラン第33章37節「アッラーの恩恵を授かり、またあなたが親切を尽くした者に、こう言った時を思え。『妻をあなたの許に留め、アッラーを畏れなさい。』だがあなたは、アッラーが暴露しようとされた、自分の胸の中に隠していたこと(養子の妻との結婚が人の口の端に上がること)を恐れていた。寧(むしろ)あなたは、アッラーを畏れるのが本当であった。それでザイドが、かの女に就いて必要なことを済ませ(離別し)たので、われはあなたをかの女と結婚させた。(これからは)信者が、必要な離婚手続きを完了した時は、自分の養子の妻でも、(結婚にも)差し支えないことにした。アッラーの命令は完遂しなければならない。」
- ^ ブハーリーの『真正集』「神の唯一性の書」第22節3項および4項など。
- ^ 『コルドバの殉教者たち-イスラム・スペインのキリスト教徒』K.B.ウルフ著、林邦夫訳、p131
- ^ Anthony Browne, Film-maker is murdered for his art, Times Online, November 3, 2004,ここでは反イスラーム主義者のHirsi Aliが『“a pervert” for marrying a six-year-old girl, Aisha, when he was 53, and consummating the marriage when she was nine』(自分が53歳のときに6歳の女の子と結婚し、9歳のときに結婚を完成させた-初夜の性交を行った-堕落者)と預言者ムハンマドを中傷・攻撃している
- ^ このこと自体は歴史的事実として確認されている。豊臣秀吉は10歳の幼女を側室にした
- ^ Maulana Muhammad Ali, The Living Thoughts of the Prophet Muhammad, p. 30, 1992, Ahmadiyya Anjuman Ishaat, ISBN 0-913321-19-2
- ^ ブハーリーの『真正集』「婚姻の書」第39節など
- ^ ブハーリーのハディース集「真正集」洗浄の書には、ムーアズ・ブン・ヒシャームからの伝として 「私は父から聞き、父はカターダから聞き、彼はアナス・ブン・マーリクから聞いた。『預言者は一昼一夜の一時間のうちに11人の妻たちと性交した、と言ったので私(カターダ)がアナスに『それは本当か』と聞くと、『預言者は13人の力を与えられている』と答えた』」という文言が伝えられている。
- ^ 建前上は一夫一妻制のキリスト教国でも王や貴族は複数の愛人を持つのが常識であった
- ^ a b 来世における右手のものたちへの褒章 イブン・カスィールによるコーラン第55章への言及
- ^ Ibn-Kathir, vol. 8, page 11, commenting on Q. 56:35-37.
- ^ 『スナン』第四巻「アッラーの使いによって記述された天国の特徴」に関する諸章、第二十一章「天国の民への最小の報いについて」ハディース2687
- ^ 初めてのセックスで処女膜を破ることの隠語
- ^ http://www.islamqa.com/index.php?ref=10053&ln=eng
- ^ コーラン第56章10節から24節には、『(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(かれらは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向い合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である。』と記されており、また56章27節から40節には『右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。(かれらは)刺のないスィドラの木、累々と実るタルフ木(の中に住み)、長く伸びる木陰の、絶え間なく流れる水の間で、豊かな果物が絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者。(これらは)右手の仲間のためである。昔の者が大勢いるが、後世の者も多い。』と記されている。先頭のものとは最良のムスリム、右手の者とは一般のムスリムのことである
- ^ 『コルドバの殉教者たち-イスラム・スペインのキリスト教徒』K.B.ウルフ著、林邦夫訳、p130
- ^ 「日訳サヒーフ・ムスリム」第2巻、結婚の書、p437、伝承者ジャービル
- ^ アリー・イブン・アビー=ターリブが別の教友であるブライダ・イブン・アル=フサイブが(強姦の)権利を持っていた女性捕虜を横取りして強姦したため、争いになったことが伝えられている。ブハーリー著「真正集」遠征の書、第61章2節
- 1 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの概要
- 2 家族と子孫
- 3 諸宗教におけるムハンマドの評価
- 4 ムハンマドと猫
- 5 ムハンマドと奴隷
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