奈良交通 概要

奈良交通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 02:50 UTC 版)

概要

1929年1月創業の奈良自動車株式会社を中心に1943年に戦時交通統合により誕生。県内に散在するバス事業者を統合したため、設立より現在に至るまで奈良県の路線バス事業をほぼ独占している。

旧塗色時代から現塗色に至るまで、ごく一部の車両を除いて車体側面で跳ねる鹿の影絵がシンボルとなっている。近鉄バス奈良観光バスとともに、近鉄バスホールディングス(旧けいはんなバスホールディングス)グループに属している。

北部では学園前駅生駒駅などからの新興住宅地への通勤輸送が好調だが、近鉄けいはんな線の開業により従来の路線を大幅に変更した。一方で地形の問題から山間部の路線を非常に多く抱え、そうした事情からも古くから飲食店経営などの副業に力を入れている。特に中南部では2004年時点で本数僅少な路線を中心に廃止、自治体への移管が相次いでいる。2006年10月1日、過疎路線の再編を実施、宇陀市内の路線一部をコミバス化するなど市町村との連携をさらに強化している。また2007年から橿原市コミュニティバスが運行され、奈良県内などでコミュニティバスの受託運行も行う。また、定期観光バス、スクールバスや社員送迎バスなどの運転者派遣業務も行っている。

  • 売上高:173億7,600万円
  • 営業距離:4,905km(夜行高速バスを含む)
  • 走行距離:1日平均約8.1万km
  • 輸送人員:1日当り約12万人
  • 運行路線数:184路線
    • 上記数字は2023年3月31日時点(2022年度実績)

歴史

創業期

奈良交通の直接のルーツとなるのは、1929年1月に設立された奈良自動車であるが、奈良交通が営業エリアとする奈良県内における乗合自動車(路線バス)の運行は、1917年5月25日桜井駅宇陀郡松山町(現・宇陀市松山地区)を結ぶ路線として松山自動車商会により運行されたものに端を発する[4]。これは、関西本線の前身である関西鉄道の駅から山間部への路線として開通したものである。

折りしも吉野鉄道大和鉄道大阪電気軌道(大軌)、信貴生駒電鉄が次々と開業した時期であり、この後1917年10月に明司自動車が開業した畝傍駅橿原神宮を結ぶ路線、1919年に南和自動車により開設された五条駅と下山口を結ぶ路線など、多くの路線が同様に鉄道の主要駅から山間部へ向かう路線として開設された。奈良市内におけるバスの運行開始は郡部よりも遅く、1927年に奈良市長により設立され、1928年1月1日より奈良駅春日大社を結ぶ路線を定員10名のシボレー5台により運行開始した奈良市街自動車がはじまりとなる。

古来より奈良は観光地として栄えてきたが、奈良市に隣接する春日奥山には1901年に周遊探勝路が開設されていた。これを奈良県が自動車の通行を可能にするために整備したが、大軌はこの整備費用の大半を寄付した上で、1929年5月25日より「春日奥山周遊バス」の運行を開始した。これは純然たる路線バスの形態を採っており、途中での乗降も可能であったほか、途中下車と乗り継ぎが自由に設定されていた。これが奈良定期観光バスの始まりであるとともに、観光地周遊バスの原型であるともいえる。なお、この周遊バスは大軌直営として最初のバスであったため、のちの近畿日本鉄道のバス事業、すなわち現在の近鉄バスの原点でもある[5]1932年には若草山の山頂へ路線を延伸している。

戦前の自主統合の動き

この時期、奈良県内には鉄道路線が相次いで開業し路線網を構築していったが、同時にバス路線も次々と開設され、1933年自動車交通事業法が施行された時点では28社が路線バスを運行していた。零細事業者の乱立は競合を招くことになり、1919年に開業した南和自動車が大正末期に経営が行き詰まり解散するなど、事業の改廃も目立った。バス事業者の統合への動きには近畿日本鉄道の前身となる鉄道企業も大きくかかわっている。

1929年には大軌が吉野鉄道を合併するのと同時に、吉野鉄道のバス事業は大軌が継承することになり、大軌吉野線自動車が発足した。大軌吉野線自動車は川上線を延長した上で、上北山村の今西茶屋で北山自動車、五郷乗合自動車(三重交通の前身の一社)と連絡して三重県側の紀伊木本駅までを結ぶことで、この時期すでに紀伊半島の縦断ルートを形成していたことが特筆される。この北山自動車は1927年5月に設立されているが、1933年には郡司自動車を買収して営業エリアの拡大を行い、大軌吉野線自動車との競合も生まれることになる。1930年には参宮急行電鉄が鉄道とバスの一貫した輸送体系を構築するべく、松山自動車商会の路線を譲り受けた上で室生自動車を設立した。1933年には榛原付近で営業していた植田自動車を買収して参急自動車とした後、1935年に室生自動車と合併させた。

一方、1929年1月には兵庫県の自動車会社の出資により奈良自動車が設立され、中田富次郎らの個人営業により運行されていた奈良駅と法隆寺を結ぶ路線を譲り受けた上で開業した。その後1932年までの間に他社の買収と合併を繰り返すことで、奈良市内と周辺部に営業エリアを拡大した。しかし事故の補償などにより経営が悪化したため、全株式を大軌に譲渡することで大軌の傘下に入ることになった。その後も他社の買収と合併を続け、1936年には奈良市内のバスは同社に一元化された。

戦時統合

1937年日中戦争勃発により戦時体制に入ると、ガソリンの供給規制が行われることになったため、1938年に奈良自動車が木炭バス2台を導入、以後バスの代用燃料化が進められる。この過程では、木炭ではなくコーライトなどを使用する代用燃料車両も登場している。そうした中においても、これまで同様の運行を継続する動きもあった。1938年9月に大軌は「春日奥山周遊バス」を奈良自動車に譲渡し、1939年8月には大軌と奈良自動車の共同出資により大和観光自動車を設立し、1940年1月1日より定期観光バス2コースの運行を開始した。しかし、同年10月にはさらに燃料事情が悪化し、これらの定期観光路線バスも運休を余儀なくされた。

1938年に陸上交通事業調整法が公布され、大阪市とその周辺が対象地域として指定されたことにより、政策的に事業者の統合が進められることになった。県北部の統合主体は大軌傘下の奈良自動車が指定され、1939年に月ヶ瀬村の月瀬遊覧自動車をはじめとした3社を合併したのをはじめとして、1942年までに合計8社を合併したほか、ハイヤータクシーについても統合を進めていった。

一方、県南部では大軌吉野線自動車をはじめとする4社が存在したが、いずれも燃料事情の悪化により経営状況が逼迫していたことから、奈良県の斡旋により交渉が行われ、1940年4月に大軌吉野線自動車と郡司自動車の現物出資による吉野宇陀交通が設立された。吉野宇陀交通は参急自動車と宇陀吉野自動車の株式を譲り受けた上で、1941年に2社を合併させることで東和自動車を設立、さらに1942年に吉野宇陀交通に合併させるという方策を採った。また、吉野郡には大峯自動車・吉野自動車などの4社が存在していたが、1938年に普賢自動車と南和乗合自動車が合併して普賢南和乗合自動車となり、大峯自動車は吉野自動車の全株式を取得し傘下に収めた。1942年11月には、この吉野郡の3社の株式を全て関西急行鉄道(関急)が取得し、関急ではこの3社の経営を吉野宇陀交通に委ねた。

この時点では関急大阪線を境に、県北部と県南部に分けて統合し、二元化を図る予定であったが、1942年の陸運統制令に基づく運輸省通牒では、奈良県は全県1社に統合するという方針が示された。1942年11月の時点で、既に奈良県内の全てのバス事業者が関急の傘下にあったことから、実質的にはグループ会社間の事務折衝のみとなり、1943年7月1日に奈良自動車が他の4社を合併した。同年7月23日には社名変更により奈良交通が発足したのである。

戦後の復興

統合により、奈良交通は路線キロ合計が1000kmを超える一大事業者となっていたが、戦時中には満足な営業が出来る状況にはなく、終戦の1945年時点で営業していた路線キロ数は506.8kmでしかなかった。また、稼動可能な車両も119台中72台しかなく、状態も劣悪であった。こうした状況から、戦後はまず車両の復旧に尽力し、1946年6月の笠置線の再開を機に、順次休止路線の復活を進めた。この時、早期復旧が困難な路線においては、公益性の低い路線は廃止されている。その一方で、1948年には三重交通との相互乗り入れにより小口と紀伊木本を結ぶ路線の運行を開始した他、1949年には近畿日本鉄道との相互乗り入れによる大阪阿部野橋駅行き急行バスを運行するなど、他社との相互乗り入れにより路線網を拡大した。1950年には奈良市内循環バスの運行も再開され、流線型キャブオーバーバスが投入されている。

復興が軌道に乗った1947年10月には「春日奥山周遊バス」の運行を再開し、定期観光バス事業も順次復活させていった。「春日奥山周遊バス」は当初は代用燃料車を使用し、運行も休日のみであったが、1948年には天井が開閉する構造のロマンスシート車両を投入し、平日にも運行されるようになった。また、1950年には「奈良市内名所めぐり」定期観光バスを新設した。

一方、1949年には貸切バス事業も開始した。当初は外国人観光客や連合軍関係者のみが対象であったが、1951年には営業範囲の制限が解除され、学校の修学旅行や一般団体も対象となった。既にこの時期に、オフシーズン対策として初詣海水浴スキーなどの会員制ツアーバス企画を打ち出していることは特筆される。1953年には事業区域は奈良県内全体に拡大され、1960年には大阪営業所を設置し大阪府内にも貸切事業を拡大、1961年には京都府にも営業所を設置した。

長距離輸送展開

1961年には全ての車両が大型ディーゼルバスとなった。この年、奈良市内に均一地帯制運賃を導入するとともに、市内定期券の設定などで利便性の向上を図った。折りしも奈良ドリームランドの開園により、利用者が急増している。

既に奈良交通では1954年に奈良から下市・上市に向けた急行バスを運行しており、1958年には奈良と五条を結ぶ急行バス路線が開設されていたが、同時期には十津川村を経由する国道168号169号の改修も進んでいたことから、五条と新宮を直通するバスの運行を計画した。このルートへの路線バス開設は5社競願となったが、最終的には奈良交通・国鉄バス熊野交通という沿線3社に免許が下りた。これを受け、1963年3月1日より奈良大仏前と新宮駅を結ぶ特急バスの運行が開始された。また、戦前に路線が開設されていた通称「北山ルート」についても、1961年に奈良大仏前と熊野市駅を結ぶ急行バスの運行を開始、これを三重交通との協定で1963年2月28日より新宮駅まで延長運転を行なった。ここに、奈良交通は紀伊半島縦断路線を2ルート有することになった。

一方、大台ヶ原ドライブウェイの完成に伴い、1961年には上市から大台ヶ原への直通バスの運行を開始した。この路線は1969年には学園前駅からの直通となった。この他にも、1965年には五条と京都を結ぶバスの運行を、1966年には名阪国道経由で天理から上野市を結ぶ急行バスの運行を開始しているなど、この時期の奈良交通では長距離路線の開設が目立った。

沿線環境の変化に対応

しかし1960年代以降、日本全国のバスを取り巻く環境に変化が生じるようになる。それはベッドタウンの外延化にともなう輸送力増強と、モータリゼーションの進展に伴う自家用車の増加、それに伴う道路渋滞と過疎地のバス利用者減少である。特に奈良交通の営業エリアにおいては、輸送力増強を要する都市型バス路線と過疎地のバス路線、さらには観光輸送のバス路線などが並存しており、これらの改善を並行して進める必要が生じたのである。

都市部の輸送力増強とマイクロバス展開

1962年には奈良市内循環線で初めてワンマン化を導入、以後均一運賃区間の路線への展開を進めた。多区間運賃路線については、奈良と五条を結ぶ特急バスにおいて、あらかじめ乗車券を購入する方式によるワンマン化を行なったほか、1966年には整理券方式によるワンマン化を試験的に導入、翌1967年より本格導入を開始した。1971年には後方監視カメラ付きバスを日本で初めて導入し、山間部の路線においてもワンマン化を進めた。

近鉄奈良線の通勤事情が1964年新生駒トンネル開通や難波乗り入れで向上したことから、1965年以降には学園前地区を中心に大規模なベッドタウン開発が行なわれた。これを受けて学園前地区の路線網は急速に拡大された。この過程で3扉車を使用し、学園前駅発は後払い、学園前駅行きは先払いとすることで学園前駅での乗降をスムーズにするというワンマン方式が導入された。

他の地区でも1973年の国鉄関西本線の電化などをきっかけにベッドタウン輸送が増強され、これに対応するために営業所の新設も行なわれた。中でも1978年に開設された北大和営業所は、隣接して新生駒営業所という別の営業所を新設するという、日本では例が少ない同一のバス事業者による2営業所隣接体制として特筆される。これらのベッドタウン輸送は、その後の奈良交通にとって路線バス収入の要となった。

1973年に近鉄バス上狛営業所管轄の京都府南部路線(山城線、東畑線、生駒木津線、上野線等)を近畿日本鉄道から譲受し奈良営業所の所管となった。

初めてスケルトン車が導入されることになった1983年、創立40周年記念としてカラーリングを変更した。

立席を前提とした2扉マイクロバス

この時期の特徴的な施策としては、マイクロバスの積極的な導入が挙げられる。奈良交通では狭隘路線や不採算路線などに積極的にマイクロバスを導入し、利便性の向上を図った。その過程で1986年から導入が開始された立席を前提とした2扉マイクロバス(いすゞ・ジャーニーQ)は、日本では奈良交通が初めて導入したものである。これにより道路整備が不完全なまま団地が造成された際に、道路整備を待たずにマイクロバスで団地路線を開設することで、団地住民のマイカーへの逸走を抑えることが可能になった。

この施策をさらに効率的に進めるべく、1988年3月にはマイクロ路線バス専門の子会社としてエヌシーバスを設立した。

過疎地の路線維持

一方、過疎化とモータリゼーションにより乗客が減少していた山間部においては、1975年東吉野村でのスクールバスの運行受託を開始したほか、1980年には十津川村において村内ローカル路線の存続とスクールバスの効率化を同時に解決するため、支線を全て十津川村営バスとした上で、全ての運行業務について奈良交通が受託するという方法を採用した。この方式は「十津川方式」とも呼ばれ、日本のバス業界において注目を集めた。これ以後、自治体バスの運行などを積極的に受託している。

また、1984年には都祁村などで、村内路線をマイクロバスにした上で幹線路線との乗り継ぎを行う方法を導入した。

なお、1988年4月には和歌山県太地町の南紀開発がバス事業を廃止したことから、奈良交通が路線バスと貸切バス事業を継承しており、奈良交通にとっては新たな事業展開となった。

観光輸送の強化

定期観光バスにおいては、1970年以降は観光客のニーズにも変化が生じたため、時流などを見定めたコース新設が目立つようになった。1972年高松塚古墳の壁画が発見され注目を集めたことに対応し、1975年に「飛鳥路史跡めぐり」コースが新設されたのをはじめとして、1982年からは季節コースの設定も行なわれた。さらに、観光キャンペーンにあわせた特別コースも設定されるようになった。

また、1979年には定期観光バス運行50周年を記念してボンネットバスを投入したほか、1985年には天井をガラス張りにした車両が「奈良公園名所めぐり」に投入された。1987年には、定期観光バスのバスガイド制服を天平風スタイルに変更した。

貸切バスについては、1970年大阪万国博覧会以降、大型需要は減少したものの、修学旅行などの固定的な需要があったことや、大阪都市圏という需要発生源を控えていることから、大きく発展することになり、営業基盤も強化されていった。

新時代へ向けて

高速バスへの参入

1988年8月、奈良交通では高速バス事業に参入した。まず関東バスとの共同運行による夜行高速バス「やまと号」を運行開始した。その後も1990年までに首都圏へ4路線を新設したほか、福岡線も1990年に開設した。また、1994年には関西国際空港へのリムジンバスの運行にも参入し、1998年には伊丹空港への路線も開設している。

しかし路線を取りまく環境の変化により、福岡・埼玉への路線は2000年までに休止となったほか、利用客の多い新宿線にはダブルデッカーエアロキング)の投入も行われた。

合理化とバリアフリー対応

1992年にカラーリングを再変更。

1990年代後半以降はコストダウンを目的とした路線再編が行なわれ、路線廃止やエヌシーバスへの移管・管理委託が進められたほか、奈良交通が運行受託する自治体バスへの転換も行なわれた。また営業所の統廃合も行なわれ、2営業所隣接体制は1998年に解消された。

その一方で、都市部の路線バスについては改善が進められ、バリアフリー対策として1994年車椅子リフト付き車両を導入したのを皮切りに、車両の低床化も進め、1997年にはワンステップバス1999年にはノンステップバスも導入された。

2000年代以降

2000年には鉄道との連絡定期券が新設されたほか、2001年には高齢者用定期券も新設した。また同2001年には奈良市がオムニバスタウンに指定された。2006年には近鉄けいはんな線の開業により大幅な路線再編を行った。観光客輸送についてもパークアンドライドへの取り組みを進めているほか、2007年3月1日からは奈良市内循環線にレトロ調をイメージし車体に奈良を代表する鹿をデザインした「バンビーナ(愛称)」を運行開始した。

2007年10月1日からは近鉄バス奈良観光バスと共に、近畿日本鉄道が設立した中間持株会社(連結子会社)のけいはんなバスホールディングス(現:近鉄バスホールディングス)の傘下に移った。

駅すぱあとCD-ROMの2006年10月版より、奈良交通・エヌシーバスの路線および運賃が検索できるようになった。

2011年(平成23年)10月27日に、奈良交通のバスの座席に薬品が撒かれ、乗客数人が火傷を負う事件が発生した[6]

支社・主要事業所

  • 旅行事業部・貸切バス事業部(本社住所に同じ)
  • 東京支社(東京都台東区台東一丁目)
  • 大阪営業所(大阪府東大阪市布市町)
  • 奈良貸切営業所(大和郡山市白土町)
  • 定期観光バス近鉄奈良案内所(奈良市中筋町)
  • バスの前方および後方のバンパーにシールが貼ってあり、所属営業所がわかるようになっている。
  • 京都営業所
    • 所在地: 京都府宇治市槇島町
    • バンパーシール: 青色の丸
    • 所管路線: 京田辺周辺など
  • 平城営業所
    • 所在地: 奈良市左京
    • バンパーシール: 黄色の丸
    • 所管路線: 奈良・大和西大寺・高の原・東登美ヶ丘・木津川市・精華・和束周辺など、木津川市・精華町のコミュニティバス。
  • 奈良営業所
    • 所在地: 大和郡山市白土町
    • バンパーシール: 緑色の丸
    • 所管路線: 奈良市内・奈良市東部山間部・天理市など、奈良市・大和郡山市・安堵町・磯城郡3町のコミュニティバス。
  • 北大和営業所
    • 所在地: 生駒市上町
    • バンパーシール: 左青色・右黄色の四角縦2本ライン
    • 所管路線: 学園前・登美ケ丘・富雄・生駒市・四條畷東部周辺、生駒市コミュニティバス。
  • 西大和営業所
    • 所在地: 北葛城郡王寺町畠田
    • バンパーシール: 黄色の四角
    • 所管路線: 王寺・香芝・五位堂・斑鳩・郡山周辺、西和1市7町のコミュニティバス。
  • 榛原営業所
    • 所在地: 宇陀市榛原区篠楽
    • バンパーシール: 橙色の四角
    • 所管路線: 針・宇陀・桜井・東吉野など。宇陀・曽爾方面コミュニティバスも担当。
  • 葛城営業所
    • 所在地: 葛城市忍海
    • バンパーシール: 橙色と緑色の四角
    • 所管路線: 橿原・大和高田・明日香・五條、八木新宮線、県中南部各市町村コミュニティバスなど
  • 十津川営業所
    • 所在地: 吉野郡十津川村平谷
    • 所管路線: 十津川線、五條西吉野線、十津川村営バス
  • 奈良交通自動車教習所大和郡山市井戸野町)
    • 構内に研修所を併設

過去の営業所

  • 吉野営業所(現在:吉野支社)
    • 所在地: 吉野郡大淀町檜垣本
    • バンパーシール: 赤色の四角→ベージュの四角
    • 2012年10月1日で葛城営業所に統合される形として消滅。車庫としては存続。
  • 天理営業所
    • 所在地:天理市指柳町
    • 2000年、奈良営業所に統合される形で廃止。

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 第138期 有価証券報告書” (PDF). 奈良交通 (2020年6月24日). 2021年1月19日閲覧。
  2. ^ 109期有価 2020, p. 7.
  3. ^ 社史『奈良交通の20年』p141.
  4. ^ 100年間の感謝を込めて!「奈良のバス100周年記念フェスタ」開催 バスのおもしろマガジン、日本バス協会公式サイト
  5. ^ 『近畿日本鉄道 80年のあゆみ』p.82、近畿日本鉄道、1990年10月発行。
  6. ^ 路線バスの座席に薬品? 乗客3人がやけど 奈良 産経新聞 2011年10月28日
  7. ^ a b c d e f g h i 奈良交通発行「とってもトレンディ~ 奈良交通バスカード新登場 平成元年10月14日実施」宣伝リーフレットより。
  8. ^ 生活交通改善事業計画<利用環境改善促進等事業>(案) (PDF) - 奈良県地域交通改善協議会
  9. ^ [1]
  10. ^ イシコ (2018年1月27日). “路線バスなのに休憩3回?”. バストリップ. 2023年11月3日閲覧。
  11. ^ 高速バス新路線「四日市・長島 奈良高速線」の運行開始について - 三重交通プレスリリース 2014年9月3日
  12. ^ 高速バス「奈良-四日市・長島線」の路線廃止について ニュースリリース|奈良交通ホームページ
  13. ^ 四日市・長島奈良高速線の路線廃止について - 高速バスのお知らせ - 高速バス|三重交通ホームページ
  14. ^ 深夜急行バス「はんな号」の運行終了について”. 奈良交通. 20200425閲覧。
  15. ^ 深夜急行バス「はんな号」の路線延長について奈良交通・2008年11月28日
  16. ^ 深夜急行バス「はんな号」新コースについて―平成27年6月1日より―奈良交通・2015年4月28日
  17. ^ 両備バス大阪支社が新製導入した個体で、同社の撤退後関東バスに転籍していた。
  18. ^ バスラマ・インターナショナルNo.126 2011年6月 ぽると出版 ISBN 978-4-89980-126-9
  19. ^ 奈良交通、連節バス導入 京都・精華町、朝夕の渋滞解消へ 奈良 産経新聞、2023年11月3日閲覧






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