北原白秋 経歴

北原白秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 10:22 UTC 版)

経歴

文壇登場まで

北原白秋生家(福岡県柳川市)

1885年(明治18年)1月25日熊本県玉名郡関外目村(現:南関町)に長男として生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)にある家に帰る。父は長太郎、母はシケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。1887年(明治20年)、弟の鉄雄が生まれる。そしてこの年には、白秋に大きな影響を与えた乳母のシカがチフスで逝去した。

1891年(明治24年)、矢留尋常小学校入学。1897年(明治30年)、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現:福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年(明治32年)には成績下落のため落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒した。1901年(明治34年)に大火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降、家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年に初めて「白秋」のを用いる。1904年(明治37年)、長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交流するようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水、牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。1905年(明治38年)には『全都覚醒賦』が『早稲田学報』懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃に少年時代に南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなる。

『桐の花』まで

1906年(明治39年)、新詩社に参加。与謝野鉄幹与謝野晶子木下杢太郎石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏蒲原有明薄田泣菫らの賞賛するところとなり、文壇の交友が更に広がる。また、この頃より象徴派に興味を持つ。1907年(明治40年)、鉄幹らと九州に遊び(『五足の靴』参照)、南蛮趣味に目覚める。また森鷗外によって観潮楼歌会に招かれ、斎藤茂吉アララギ派歌人とも面識を得るようになった。

1908年(明治41年)、『謀叛』を発表し、世評高くなる。またこの年、新詩社を脱退した。木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加。この会には吉井勇高村光太郎らも加わり、象徴主義耽美主義的詩風を志向する文学運動の拠点になった。1909年(明治42年)、『スバル』創刊に参加。木下らと詩誌『屋上庭園』創刊。また処女詩集『邪宗門』上梓。官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となるも、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされた。

1910年(明治43年)、『屋上庭園』2号に掲載した白秋の詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ発禁処分を受け、同誌は年内に廃刊した。またこの年、三重県名張町の医師の娘であった松下俊子の隣家(東京原宿)に転居。

1911年(明治44年)、第二詩集『思ひ出』刊行。故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され、文名を一躍高めた。また同年には文芸誌『朱欒(ざんぼあ)』[1] を創刊。

1912年(明治45年 / 大正元年)には母と弟妹を東京に呼び寄せ、年末には一人故郷に残っていた父も上京する。白秋は隣家に住んでいた松下俊子と恋に落ちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監拘置された。弟らの尽力により2週間後に釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下げられたが、人気詩人白秋の名声は不祥事によって地に堕ちた。この事件は以降の白秋の詩風にも影響を与えたとされる。この頃に、穂積忠の師匠となった[2]

1913年(大正2年)、初めての歌集桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行。特に『桐の花』で明星派の柔らかな抒情をよく咀嚼した歌風を見せ、これによって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになる。

同年1月、俊子との問題で自殺すら考えるほど傷心の白秋は東京から船で三浦半島南西の三浦三崎神奈川県)に渡って十日余り過ごし、一度帰京した後、5月に三崎へ移り住んだ[3]。同年春に俊子と結婚。父と弟が事業に失敗。白秋夫婦を残して一家は東京に引き揚げる。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品であるという。『城ヶ島の雨』は梁田貞曲を付け奥田良三が歌ってヒットし、行楽地としての城ヶ島の名を高め、城ヶ島には白秋記念館がある[3]

また同年に『朱欒』を廃刊[1]、発行期間は短かったが萩原朔太郎室生犀星が詩壇に登場する足がかりとなった[1]。同年、長野県佐久のホテルに逗留して執筆活動を行う[4]

『落葉松』まで

1914年(大正3年)、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するもほどなく帰京。父母と俊子との折り合いが悪く、遂に離婚に至る。『真珠抄』『白金之独楽』刊行。また『地上巡礼』創刊。1915年(大正4年)、前橋萩原朔太郎を訪う。弟と阿蘭陀書房を創立し、雑誌『ARS』を創刊。さらに詩集『わすれなぐさ』と歌集『雲母集』を刊行。1916年(大正5年)、詩人の江口章子と結婚し、東京小岩町の紫烟草舎に転居。筆勢いよいよ盛んにして『白秋小品』を刊行する。1917年(大正6年)、阿蘭陀書房を手放し、再び弟と出版社アルスを創立。この前後、家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病んだ。

1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の勧めにより『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当。優れた童謡作品を次々と発表し、作品に新生面を拓くのみならず、以降の口語的、歌謡的な詩風に強い影響を与えることになる。1919年(大正8年)、処女小説『葛飾文章』『金魚』発表。生活もようやく落ち着き、歌謡集『白秋小唄集』、童謡集『とんぼの眼玉』刊行。それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付ける。1920年(大正9年)、『雀の生活』刊行。また『白秋詩集』刊行開始。伝肇寺境内の住宅の隣に山荘を新築した際の祝宴は、小田原の芸者総出という派手なものであった。それに白秋の生活を金銭的に支えて来た弟らが反発し、章子を非難する。着物の殆どを質入れしたと言う章子は非難されるいわれもなく反発。その晩、章子は行方を晦(くら)まし、白秋が不貞を疑い章子と離婚。

1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學の元で仕事)と結婚。信州滞在中に想を得て『落葉松』を発表する。歌集『雀の卵』、翻訳『まざあ・ぐうす』などを刊行。1922年(大正11年)、長男・隆太郎誕生。文化学院で講師となる。また山田耕筰と共に『詩と音楽』を創刊。山田とのコンビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。1923年(大正12年)、三崎、信州、千葉塩原温泉を歴訪。詩集『水墨集』を刊行するも、関東大震災によりアルス社が罹災し、山荘も半壊する。

晩年

故郷の柳川市に建立された詩碑「帰去来」
(2003年10月21日撮影)
音楽・音声外部リンク
全曲を試聴
『萬歳ヒットラー・ユーゲント』
北原白秋(作詞)、高階哲夫(作編曲)、藤原義江(歌)、日本ビクター管弦楽団
国立国会図書館デジタルコレクション

1924年(大正13年)1月5日、田中智學の招きで両親、妻菊子、長男隆太郎らとともに静岡県三保の田中智學の最勝閣へ旅行し、龍華寺、羽衣の松などを観光、長歌1首、短歌173首を作る。同年短歌雑誌『日光』を創刊。反アララギ派の歌人が大同団結し、象徴主義的歌風を目指す。1925年(大正14年)、長女・篁子(ドイツ語学者、岩崎英二郎夫人)誕生。樺太北海道に遊ぶ。童謡集『子供の村』など刊行。1926年(大正15年 / 昭和元年)、東京谷中に転居。詩誌『近代風景』創刊。童謡集『からたちの花』『象の子』などを刊行。1927年(昭和2年)、出版内容の競合からアルス社と興文社に悶着が起こり、興文社側の菊池寛と対立。詩論集『芸術の円光』刊行。1928年(昭和3年)、東京世田谷区に転居。『大阪朝日新聞』(現在の『朝日新聞』)の企画により、福岡県大刀洗町から大阪まで飛行機に搭乗する。1929年(昭和4年)、『海豹と雲』など刊行。また『白秋全集』の刊行開始。川田順斎藤茂吉前田夕暮松村英一とともに日本歌人協会(東京市本郷区駒込)の常務となった[5]

1930年(昭和5年)、南満洲鉄道の招聘により満洲旅行。帰途に奈良へ立寄り、頻りに家族旅行に出かける。1932年(昭和7年)、吉田一穂大木惇夫と詩誌『新詩論』創刊。1933年(昭和8年)、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降『赤い鳥』に筆を執ることはなくなる。また同年の皇太子明仁親王誕生の際には、奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲: 中山晋平)を寄せる。1934年(昭和9年)、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。台湾総督府の招聘により台湾に遊ぶ。1935年(昭和10年)、新幽玄体を標榜して多磨短歌会を結成し、歌誌『多磨』を創刊する。『大阪毎日新聞』の委託により日本統治時代の朝鮮に旅行。この年、50歳を祝う催しが盛大に行われる。

1937年(昭和12年)、糖尿病および腎臓病合併症のために眼底出血を引き起こし入院。視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭する。1938年(昭和13年)にはヒトラーユーゲントの来日に際して『万歳ヒットラー・ユーゲント』を作詞するなど、国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。1940年(昭和15年)、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲: 信時潔)の作詩にあたる。1941年(昭和16年)春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父の墓参をし、さらに宮崎、奈良を巡遊。またこの年、帝国芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。

1942年(昭和17年)、川田順日本文学報国会情報局大政翼賛会の後援、毎日新聞社の協力により『愛国百人一首』を編纂した際、北原も選者に選ばれたが[6]、北原は小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日糖尿病腎臓病のため阿佐ヶ谷の自宅で逝去[7]。57歳没。

同年11月12日、叙勲(勲四等瑞宝章[8]。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。


  1. ^ a b c 朱欒(読み)ざんぼあ 日本大百科全書(ニッポニカ)「朱欒」の解説 - コトバンク
  2. ^ 穂積忠』 - コトバンク
  3. ^ a b 【旅に旅して】三浦三崎(神奈川県三浦市)傷心いやした海と人情『読売新聞』日曜朝刊別刷り「よみほっと」2022年9月18日1面
  4. ^ 佐久商工会御所発行『暖簾』(平成21年3月10日)2頁中
  5. ^ 日本歌人協会』《文芸年鑑 昭和5年版》、409頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1077746/1/211 
  6. ^ 田中康二幕末勤皇歌研究と時局」『神戸大学文学部紀要』第39巻、神戸大学文学部、2012年3月、1-41頁、doi:10.24546/81008293hdl:20.500.14094/81008293ISSN 02885808  選定委員は佐佐木信綱斎藤茂吉、北原白秋(途中で没)、太田水穂尾上柴舟窪田空穂折口信夫吉植庄亮川田順斎藤瀏土屋文明松村英一の12名である。
  7. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)118頁
  8. ^ 文学に尽くした功績で叙勲(昭和17年11月13日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』(毎日コミュニケーションズ刊 1994年)p.69
  9. ^ 日本伝承童謡集成 全6巻 復刻版
  10. ^ - 歌ネット
  11. ^ 福島市歌 福島市、2017年3月1日更新
  12. ^ 八王子市歌 八王子市、2016年6月29日更新
  13. ^ 市歌 - 岡崎市の概要 岡崎市、2018年8月13日更新
  14. ^ 横須賀市歌(独唱) 国立国会図書館・歴史的音源
  15. ^ 多摩川音頭で知る"郷土" 市民団体が伝承の取り組み タウンニュース 川崎市多摩区版、2011年7月29日号
  16. ^ 多摩川音頭の歌詞(No. 2/31)多摩川育ちとは? ハイムのひろば、新多摩川ハイム理事会(多摩区中野島
  17. ^ 多摩川音頭を探る ハイムのひろば、新多摩川ハイム理事会(多摩区中野島)
  18. ^ ロゴマーク・東京大学の歌 東京大学
  19. ^ 学園校歌 学校法人暁星学園
  20. ^ a b 小田原文学館 パンフレット” (PDF). 2024年1月8日閲覧。
  21. ^ 白秋童謡館がリニューアル 小田原、1年ぶりに再開へ」『神奈川新聞』、2018年7月26日。2024年1月6日閲覧。
  22. ^ 小田原の文学”. 小田原市. 2024年1月6日閲覧。
  23. ^ “主演・大森南朋&AKIRA、監督・佐々部清で童謡『この道』映画化 日本映画史上初、富士屋ホテルでの撮影も”. Real Sound. (2018年3月13日). https://realsound.jp/movie/2018/03/post-170248.html 2021年2月19日閲覧。 
  24. ^ NHK特集「トンカジョンの出奔 〜白秋・『思ひ出』の世界〜」”. NHK (2022年11月15日). 2022年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月16日閲覧。


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